り歸つてきやがつた。一週間ばかり神戸へ行つてゐて、毎日バアを歩き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つては、あいつの膨脹した欲望をへとへとにさせてゐたんださうだ。もうすつかり腹の蟲が納まつたやうな顏をしてゐる。あいつは思つたより實際派《リアリスト》だな」
僕は僕の頭の中がだんだん蜜蜂のうなりで一ぱいになるのを感じながら、友人の話を默つて聞いてゐた。僕はその間、時々、友人の顏を見上げた。それは僕に、さつき群集の中でその顏を見つめながら、彼だと氣づかなかつたほどぼんやりしてゐた僕自身を思ひ出させ、それから僕をそれほどにしてゐた僕の苦痛の全部を思ひ出させた。
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その數日前から、僕は少しも彼女の顏を思ひ出さないやうに、自分を慣らしてゐた。それが僕に彼女はもう無いものと信じさせてゐた。が、それは自分の部屋の亂雜に慣れてそれを少しも氣にしなくなり、多くの本の下積みになつてゐるパイプをもう無いものと信じてゐるやうなものであつた。その本を取りのける機會は、その下にパイプを發見させる。
そのやうにして、再び僕の前に現れた彼女は、その出現と同時に、彼女に對する僕の以前と少しも異らない愛を僕の中によみがへらせた。僕の理性はしかし、僕と彼女との間に、一度傷つけられた僕の自負心を、あらゆる苦痛の思ひ出を、堆積した。それにもかかはらず、それらのものを通して、一つの切ない感情が、彼女の本當に愛してゐるのはやはり僕だつたのではないかといふ疑ひが、僕の中に浸入して來るのである。それは愛の確實な徴候だ。そしてそれを認めることによつて、僕はどうしても、自分の病氣から離れられない病人の絶望した氣持を經驗した。
時間は苦痛を腐蝕させる。しかしそれを切斷しない。僕は寧ろ手術されることを欲した。その僕の性急さが、僕一人でカフエ・シヤノアルに彼女に會ひに行くといふ大膽な考へを僕に與へたのである。
僕は始めて入つた客のやうにカフエの中を見まはす。僕を見て珍らしさうに笑ひかける見知つたウエイトレスの顏のいくつかが、僕の探してゐるものから僕の眼を遮る。僕の眼はためらひながら漸つとそれらの間に彼女を見出す。彼女は入口に近いオオケストラ・ボツクスによりかかつてゐる。その不自然な姿勢は僕に、僕の入つて來たのを知りながら彼女はまだそれに氣づかない風をしてゐるのだと信じさせる。僕は手術
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