顏をさがすだけの氣力すらない。
カフエ・シヤノアルを出て友人等に別れると、僕は一人でタクシイに乘る。僕は力なく搖すぶられながら、運轉手の大きな肩を見つめる。あたりが急に暗くなる。近道をするために自動車は上野公園の森の中を拔けて行くのである。「おい」僕は思はず運轉手の肩に手をかけようとする。それが急に槇の大きな肩を思ひ起させたからである。しかし僕の重い手は僕の身體を殆んど離れようとしない。僕の心臟は悲しみでしめつけられる。ヘツドライトが芝生の一部分だけを照らし出す。その芝生によつて、今朝の夢が僕の中に急によみがへる。夢の中の彼女の顏が、僕の顏に觸れるくらゐ近づいてくる。しかし、その顏は僕を不器用に慰める。
3
眞夏の日々。
太陽の強烈な光は、金魚鉢の中の金魚をよく見せないやうに、僕の心の中の悲しみを僕にはつきりと見せない。そして暑さが僕のあらゆる感覺を麻痺させる。僕には僕のまはりを取りまいてゐるものが何であるか殆どわからない。僕はただフライパンの臭ひと洗濯物の反射と窓の下を通る自動車の爆音の中にぼんやりしてゐる。
が夜がくると、僕には僕の悲しみがはつきりと見え出す。一つづつ樣々な思ひ出がよみがへつてくる。公園の番になる。するとそれだけが急に大きくなつて行つて、他のすべての思ひ出は、その後ろに隱されてしまふ。僕はこの思ひ出を非常に恐れてゐる。そしてそれを僕から離さうとして僕は氣狂のやうにもがき出す。
僕は何處でもかまはずに歩く。僕はただ自分の中に居たくないために歩く。彼女や友人たちからばかりでなく、僕自身からも遠くに離れてゐる事が僕には必要なのである。僕はあらゆる思ひ出を恐れ、又、僕に新しい思ひ出を持つてくるやうな一つの行爲をすることを恐れる。そのために僕は僕自身の影で歩道を汚すより他のことは何もしようとしない。
或夜、黄色い帶をしめた若い女が、僕を追ひこしながら、僕に微笑をして行く。僕はその女の後を、一種の快感をもつて追つて行く。が、その女が或る店の中に入つてしまふと、僕は彼女を少しも待たうとしないでそこを歩き去る。僕はすぐその女を忘れる。それから二三日して、僕は再び群集の中に黄色い帶をしめた若い女が歩いてゐるのを認める。僕は足を早める。が、その女に追ひついて見ても、僕にはもうそれが二三日前の女かどうか分らなくなつてゐる。そしてそれ
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