余しながら、かれこれ一時間近くもその山径《やまみち》をさまよっていた。そうしてその挙句《あげく》、私がやっと気がついた時には、そんな風に歩きながら自分でも知らずに何度も指で引張っていたものと見えて、私の鼠色《ねずみいろ》のジャケツの肩《かた》のところに出来たその小さな綻《ほころ》びは、もう目立つくらいに大きくなっていた。――私はとうとう踵《きびす》を返して、再び渓流づたいにその山径を下りてきた。そうして私は自分の行く手に、真っ白な、小さな橋と、一本の大きな蝙蝠傘のような樅の木を認めだすと、私はすこし歩みを緩《ゆる》めながら、わざと目をつぶった。その木蔭《こかげ》になって見えずにいるものを、私のすぐ近くに、不意に、思いがけぬもののように見出《みいだ》したかったのだ。……とうとう私は我慢《がまん》し切れずに私の目を開けてみた。しかし彼女は私からまだ十数歩先きのところにいた。そうしてその木蔭にしゃがみながらそれまでパレットを削《けず》っていたらしい彼女が、その時つと立ち上って、私にはすこしも気がつかないように、描きかけのカンバスを画架からとりはずすと、それを道ばたの草の上へいかにも投げやりに、乱暴なくらいにほうり出したところだった。ほうり出された大きなカンバスは、しかしひとりでにふんわりとなりながら、草の上へ倒《たお》れて行った。それを見ると、私は彼女のそばへ駈《か》けつけた。
「僕が持っていて上げよう」
「いいわ……いつもひとりでするんですから」
「意地わる!」
「意地わるでしょう」
私は彼女とそんな風に子供らしく言い合いながら、無理にカンバスを引ったくると、それを自分の肩にあてがいながら、彼女と並《なら》んで村の街道《かいどう》を宿屋の方へと歩いて行った。ときおり私たちは散歩をしている西洋人や村の子供たちとすれちがった。彼等《かれら》のもの珍《めず》らしそうな視線は私たちを――殊《こと》にまだこの村に慣れない彼女を気づまりにさせているらしかった。私は私で、そういう彼女をつとめて気軽にさせようと思って、私の空いている方の手を自分の肩の上へやりながら、
「ほら、こんな穴が出来ちゃった……さっき一人で散歩しているとき野薔薇《のばら》にひっかかったのさ」
そう言って、その肩の穴がもっと大きくなるのも構わずに、それをよく彼女に見せようとして、自分のジャケツを引張って見せたりした。そうして私はこんなにまで私と打ち解け合いだしているこの少女を振《ふ》り棄《す》てて、自分ひとりこの村を立ち去るなんぞということは、到底出来そうもないと考え出していた。
※[#アステリズム、1−12−94]
私の「美しい村」は予定よりだいぶ遅《おく》れて、或る日のこと、漸《や》っと脱稿《だっこう》した。すでに七月も半ばを過ぎていた。そうして私はそれを書き上げ次第、この村から出発するつもりであったのに、私はなおも、そういう一人の少女のために、一日一日と私の出発を延ばしながら、私がその物語の背景に使った、季節前の、気味悪いくらいにひっそりした高原の村が、次第次第に夏の季節《シイズン》にはいり、それと同時にこの村にもぽつぽつと避暑客《ひしょきゃく》たちが這入り込んでくるのを、私は何んだか胸をしめつけられるような気持で、目《ま》のあたりに迎《むか》えていた。
私はしばしばその少女と連れ立って、夕食後など、宿の裏の、西洋人の別荘《べっそう》の多い水車の道のあたりを散歩するようになっていた。そんな散歩中、ときおり、一月《ひとつき》前までは私と一しょに遊び戯《たわむ》れたりしたことさえある村の子供たちと出会《であ》うようなこともあったが、彼等は私たちの傍を素知らぬ顔をして通り抜《ぬ》けていった。もう私を覚えていないのだろうか、それとも私がそんな見知らない少女と二人づれなのを異様に思ってそうするのだろうか? ……しかしそれらの子供たちも、そのうちだんだんに、そんな林の中で最初のうちは私たちのよく見かけたものだった、さまざまな小鳥などと共に、その姿をほとんど見せないようになった。そしてその代り、私たちとすれちがいながら、私たちに好奇的な眼《まな》ざしを投げてゆく、散歩中の人々や、自転車に乗った人々などがだんだんに増えて来た。それらの中には私と顔見知りの人たちなども雑《まじ》っていた。私はいつかこんなところをひょっくり昔の女友達にでも出会いはしないかと一人で気を揉《も》んでいたが、ときどき、そんな散歩の途中《とちゅう》に、ふと向うからやってくる人々のうちに遠見がどこかそれらに似たような人があったりすると、私は慌《あわ》てて、その人たちを避《さ》けるために、道もないような草の茂《しげ》みのなかへ彼女を引っ張りこんで、何んにも知らない彼女を駭《おどろ》かせるようなこともあった。
そんな風に、私は彼女と暮方近い林のなかを歩きながら、まだ私が彼女を知らなかった頃、一人でそこいらをあてもなく散歩をしていたときは、あんなにも私の愛していた瑞西《スイス》式のバンガロオだの、美しい灌木《かんぼく》だの、羊歯《しだ》だのを、彼女に指して見せながら、私はなんだか不思議な気がした。それ等のものが今ではもう私には魅力《みりょく》もなんにも無くなってしまっていたからだ。そうして私は彼女の手前、それ等のものを今でも愛しているように見せかけるのに一種の努力をさえしなければならなかった。それほど、私自身は私のそばにいる彼女のことで一ぱいになってしまっているのだった。……そうしてそんな薄《うす》ぐらい道ばたなどで、私は私の方に身を靠《もた》せかけてそれ等のものをよく見ようとしている彼女のしなやかな肩へじっと目を注ぎながら、そっとその肩へ私の手をかけても彼女はそれを決して拒《こば》みはしないだろうと思った。そして私は或《あ》る時などは、その肩へさりげないように私の手をかけようとして、彼女の方へ私の上半身を傾《かたむ》けかけた。私の心臓は急にどきどきしだした。が、それよりももっとはげしく彼女の心臓が鼓動《こどう》しているのを、その瞬間、私は耳にした。そしてそれが私に、そういう愛撫《あいぶ》を、ほんのそのデッサンだけで終らせた。……私はまだその本物を知らないのだけれど、それが与えるのとちっとも異《ちが》わないような特異《ユニイク》な快さを、そのデッサンだけでもう充分《じゅうぶん》に味《あじわ》ったように思いながら。
※[#アステリズム、1−12−94]
一体、「水車の道」というのは、郵便局やいろんな食料品店などのある本通りの南側を、それと殆《ほと》んど平行しながら通っているのだが、それらの二つの平行線を斜《はす》かいに切っている、いくつかの狭《せま》い横町があった。そんな横町の一つに、その村で有名な二|軒《けん》の花屋があった。二軒とも藁屋根《わらやね》の小さな家だったが、共に、その家の五六倍ぐらいはあるような、大きな立派な花畑に取り囲まれていた。そしてその二つの花畑を区切って、いつも気持のよいせせらぎの音を立てながら流れているのは、数年前まで、そのずっと上流のところでごとごとと古い水車を廻転《かいてん》させていたところの、あの小さな流れであった。そしてその一方の花畑などは、水車の道を越《こ》して、更《さ》らにその道の向うまで氾濫《はんらん》していた。……つい先頃までは、あんなに何処《どこ》もかしこも花だらけであったこの村では、この二軒の花屋は、ほとんどその存在さえ人々から忘れられていた位であったが、やがてその季節が過ぎ、それらの野生の花がすっかり散って、それと入れ代りに今度は、これらの畑で人工的に育て上げられた、さまざまな珍らしい花が、一どにどっと咲《さ》き出したものだから、その横町を通り抜ける者は誰《だれ》しもその美しい花畑に眸《ひとみ》をみはらないものは無いくらいであった。だが、その二軒並んだ花屋の前を通りすがりに、注意をしてそれらの店の奥《おく》に坐《すわ》っている花屋の主人たちに目を止めた者は、一層の愕《おどろ》きのためにその眸をもっと大きくせずにはいられなかったであろう。と言うのは、その一方の店の奥にきょとんと坐っている白い碁盤縞《ごばんじま》のシャツを着た小柄《こがら》な老人を認めたのち、次の花屋の前にさしかかると、何んとその奥にも、つい今しがたもう一方の奥に見かけたばかりのと寸分も異《ちが》わない、小柄な老人が、やはり同じような白い碁盤縞のシャツを着て、きょとんと腰《こし》をかけ、往来の方を眺めているのに気づくだろうからだ。ただ異うのは、そんな二人のそばに坐っているのが、一方はいつも髪《かみ》の毛をくしゃくしゃにさせた、肥《ふと》っちょの女房《にょうぼう》であったし、もう一方はそれと好対照をしている位に痩《や》せっぽちの、すこし藪睨《やぶにら》みらしい女房であることだ。つまり、その二軒の花屋の老いたる主人たちは、ほとんど瓜《うり》二つと云《い》っていいほどの、兄弟なのであった。その上、可笑《おか》しいことには、この花屋の兄弟はとても仲が悪くて、夏場だけはお互《たがい》に仲好《なかよ》さそうに口を利《き》き合いながら商売をしているが、さて夏場が過ぎてしまうと、すぐに性懲《しょうこ》りもなく喧嘩《けんか》をし始め、冬の間などは、お互に一言も口を利かずに過ごすようなことさえあると言うことだった。――そんな風変りな二軒の花屋のある横町には、道ばたに数本の小さな樅《もみ》と楓《かえで》とが植えられてあったが、その一番手前の小さな楓の木に、ついこの間のこと、「売物モミ二本、カエデ三本」という真新しい木札《きふだ》がぶらさげられた。そしていまや、その横町の両側の花畑には、向日葵《ひまわり》だの、ダリヤだの、その他さまざまの珍らしい花が真っさかりであった。……
私はそんな二軒の花屋の物語を彼女に聞かせながら、その私の大好きな横町へ、彼女の注意を向けさせた。
水車の道の上へ大きな枝を拡《ひろ》げている、一本の古い桜《さくら》の木の根元から、その道から一段低くなっている花畑の向うに、店の名前を羅馬字《ロオマじ》で真白にくり抜いた、空色の看板が、さまざまな紅だの黄だのの花とすれすれの高さに、しかしそれだけくっきりと浮《う》いて見えている。――そんな角度から見た一|軒《けん》の花屋の屋根とその花畑を、彼女は或る日から五十号のカンバスに描《えが》き出した……。
しかしその水車の道はそのへんの別荘の人たちが割合に往《ゆ》き来するので、彼女のまわりにはすぐ人だかりがして困るらしかったが、私は一|遍《ぺん》もその絵を描いている場所へ近づこうとはしないでいた。そんな人目につき易《やす》い場所で私が彼女と親しそうにしているのを、私の顔見知りの人々に見られたくなかったからだ。で、私は自分の部屋に閉《と》じこもったきりで、この頃やっと書き上げたばかりの原稿へ最後の手入れをし続けていた。(しかし、その間一番余計に私の考えていたのは、やっぱり彼女のことであった。)――が、私はその花屋を描いているところを遠くからなりと、一度見て置きたいと思って、或る朝、宿屋の裏の坂を上りながら水車の道まで出ていって見た。そうして私は、その道の向うの、大きな桜の木の下に立って、パレットを動かしている彼女と、それから彼女の横からその画布を覗《のぞ》き込《こ》みながら、一人のベレ帽《ぼう》をかぶった若い男が、何やら彼女に話しかけているのを認めた。私はそんな男が早く彼女のそばを立ち去ってくれればいいにと、すこしやきもきしながら、待っていた。――
「誰れ? いまの人……」やっとその男が立ち去ったのを見ると、私は急いで彼女の方へ近づいて行きながら、いかにも何気《なにげ》なさそうに訊《き》いた。
「画家《えかき》さんなんですって……何んだか、あんまり何時《いつ》までも見ていらっしゃるんで、私、厭《いや》になっちゃった……」
彼女はわざとらしく顔をしかめて見せた。それからすこし恐《こわ》いような眼つきをして花畑の一部を見
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