、その生墻に間歇《かんけつ》的に簇《むら》がりながら花をつけている野薔薇の与える音楽的効果を楽しみさえすればよかったのであるから。だから或る時などは、それのみを楽しむために、私は故意《わざ》とよそっぽを見ながら歩いたりした。
 或る朝、私はそんな風にサナトリウムの前まで行ってすぐそのまま引っ返して来ると、向うの小さな木橋を渡り、いまその生墻に差しかかったばかりのレエノルズ博士の姿を認めた。すぐ近くの自宅から病院へ出勤して来る途中らしかった。片手に太いステッキを持ち、他《ほか》の手でパイプを握《にぎ》ったまま、少し猫背《ねこぜ》になって生墻の上へ気づかわしそうな視線を注ぎながら私の方へ近づいて来た。が、私を認めると、急にそれから目を離《はな》して、自分の前ばかりを見ながら歩き出した。そんな気がした。私も私で、そんな野薔薇などには目もくれない者のように、そっぽを向きながら歩いて行った。そうして私はすれちがいざま、その老人の焦点《しょうてん》を失ったような空虚《うつろ》な眼差《まなざ》しのうちに、彼の可笑《おか》しいほどな狼狽《ろうばい》と、私を気づまりにさせずにおかないような彼の不機嫌《ふきげん》とを見抜《みぬ》いた。
 それから数日後の或る朝だった。だんだんに夏らしい色を帯び出して来た美しい空が、私にだけ、突然物悲しく閉《とざ》されてしまったように見えた。毎朝のようにそれに沿うて歩きながら、しかし、よく注意して見ようとはしないでいた野薔薇の白い小さな花が、いつの間にやら殆ど全部|蝕《むし》ばまれて、それに黄褐色《おうかっしょく》のきたならしい斑点《はんてん》がどっさり出来てしまっていることに、その朝、私は始めて気がついたのだった。

     ※[#アステリズム、1−12−94]

 ……数年前までは半分|壊《こわ》れかかった水車がごとごと音を立てながら廻《まわ》っていた小さな流れのほとりには、その大抵《たいてい》が三四十年前に外人の建てたと言われる古いバンガロオが雑木林《ぞうきばやし》の間に立ちならんでいたが、そこいらの小径《こみち》はそれが行きづまりなのか、通り抜けられるのか、ちょっと区別のつかないほど、ややっこしかったので、この村へ最初にやって来たばかりの時分には、私はひとりで散歩をする時などは本当にまごまごしてしまうのだった。確かに抜け道らしいんだが、その小径は突然外人たちのお茶などを飲んでいるヴェランダのすぐ横を通ったりするのだった。そういう私道なのか、抜け道なのか分からないような或る小径に又しても踏《ふ》み込《こ》んでしまった私は、私の背ぐらいある灌木の茂みの間から不意に私の目の前が展《ひら》けて、そこの突きあたりにヴェランダがあり、籐《とう》の寝椅子《ねいす》に一人の淡青色《たんせいしょく》のハアフ・コオトを着て、ふっさりと髪《かみ》を肩《かた》へ垂らした少女が物憂《ものう》げに靠《もた》れかかっているのを認め、のみならず、その少女が私の足音を聞きつけてひょいと私の方を振《ふ》り向いたらしいのを認めるが早いか、私は顔を赤らめながら、その少女をよく見ずに慌《あわ》てて其処《そこ》から引っ返してしまった。――その時|若《も》し私がその少女をもっとよく見たら、それが数日前に私が宿屋の裏の狭い坂道ですれちがった数人の少女たちの中の一人であることに気がついて、私の狼狽はもっと大きかっただろうに。……
 この頃|刈《か》ったばかりらしい青々とした芝生《しばふ》が、その時にはその少女の坐《すわ》っていたヴェランダをこっちからは見えなくさせていた一面の灌木の茂みに代えられて、そうしていま私のぼんやり立っているこの小径《こみち》からその芝生を真白《まっしろ》い柵《さく》が鮮《あざ》やかに区限《くぎ》って。……そのように、すべてが変っていた。いま私にまざまざと蘇って来たところの、そう言うような、最初に私が彼女《かのじょ》に会った当時の彼女のういういしい面影《おもかげ》と、数カ月前、最後に会った時の、そしてその時から今だに私の眼先にちらついてならない彼女の冷やかな面影と、何と異って見えることか! 彼女の容貌《ようぼう》そのものがそんなにも変ったのか、それとも私の中にその幻像《イマアジュ》が変ったのか、私は知らない。しかし何もかも、恐《おそ》らく私自身も変ってしまったのだ。……
 私はそのとき向うの方から何かを重そうに担《にな》いながら私の方に近づいてくる者があるのを認めた。それは羊歯《しだ》を背負っている宿の爺《じい》やであった。私はいつか彼の話していた羊歯のことを思い出した。
 私は爺やの言うがままに、彼についてその庭の中へおずおずと這入《はい》って行った。そうして爺やが庭の一隅にその羊歯を植えつけている間、私は黙ってヴェランダの床板に腰《こし》かけていた。爺やはときどき羊歯を植えつける場所について私に助言を求めた。その度毎《たびごと》に、私の胸はしめつけられた。
 一通りみんな植えつけてしまうと、爺やは私のそばに腰を下ろした。私の与えた巻煙草《まきたばこ》を彼は耳にはさんだきり、それを吸おうとはせずに、自分の腰から鉈豆《なたまめ》の煙管《きせる》を抜《ぬ》いた。
 私はふだんの無口な習慣から抜け出ようと努力しながら、これもまた機嫌買いらしい爺やを相手に世間話をし出した。
「爺やさん、峠《とうげ》の途中に気ちがいの女がいるそうだけれど、それあ本当なのかい?」
「へえ、可哀《かわい》そうにすこし気が変なんでございますよ、――先《せん》にはうちでもちょいちょい何かくれてやりましたもので、よく山からにこにこしながら、いろんな花を採って来てくれたりしましたっけが。……ただ、そいつの亭主《ていしゅ》というのが大へんな奴《やつ》でしてね、こっちからわざわざ何か持って行ってやったりしますと、いつも酔払《よっぱら》っていちゃあ、『くれるというものなら貰《もら》っといたらいいじゃねえか』と、嬶《かかあ》の気の毒がるのを叱《しか》りつけようてった調子なんですからね。……それで、こっちでもだんだん情が通わなくなって来て、この頃じゃ、もう、ちっとも構いませんです」
「何だってね、――その気ちがいって、ときどき川のなかへ飛び込むんだってね?」
「へえ、そんな人騒《ひとさわ》がせなこともときどきやりますが、あれあどうも少し狂言《きょうげん》らしいんで……」
「そうなのかい? ――どうしてまたそんな……」
 私はふと口ごもりながら、あの林のなかの空地にあった異様な恰好《かっこう》をした氷倉《こおりぐら》だの、その裏の方でした得体《えたい》の知れない叫《さけ》び声だのを思い浮べた。そうしてそれ等《ら》のものを今だにこんなにも異常に私に感じさせている、峠の子供たちの不思議な領分の上を思った。――子供たちよ、よし大人《おとな》たちにはそういう狂行が贋《にせ》ものに見えようとも、お前たちは、そんな大人たちには鎖《とざ》されている、お前たちだけのその領分の中で遊べるだけ遊んでいるがいい。
 爺やとの話は、私の展開さすべく悩んでいた物語のもう一人の人物の上にも思いがけない光を投げた。それはあの四十年近くもこの村に住んでいるレエノルズ博士が村中の者からずっと憎《にく》まれ通しであると言うことだった。或《あ》る年の冬、その老医師の自宅が留守中に火事を起したことや、しかし村の者は誰《だれ》一人それを消し止めようとはしなかったことや、そのために老医師が二十数年もかかって研究して書いていた論文がすっかり灰燼《かいじん》に帰したことなどを話した、爺やの話の様子では、どうも村の者が放火したらしくも見える。(何故《なぜ》そんなにその老医師が村の者から憎まれるようになったかは爺やの話だけではよく分からなかったけれど、私もまたそれを執拗《しつよう》に尋《たず》ねようとはしなかった。)――それ以来、老医師はその妻子だけを瑞西《スイス》に帰してしまい、そうして今だにどういう気なのか頑固《がんこ》に一人きりで看護婦を相手に暮しているのだった。……私はそんな話をしている爺やの無表情な顔のなかに、嘗《か》つて彼自身もその老外人に一種の敵意をもっていたらしいことが、一つの傷のように残っているのを私は認めた。それは村の者の愚《おろ》かしさの印《しる》しであろうか、それともその老外人の頑《かたくな》な気質のためであろうか? ……そう言うような話を聞きながら、私は、自分があんなにも愛した彼の病院の裏側の野薔薇《のばら》の生墻《いけがき》のことを何か切ないような気持になって思い出していた。
 私はヴェランダの床板《ゆかいた》に腰かけたきり、爺やがまた何処《どこ》からか羊歯を運んで来るまで、さまざまな物思いにふけりながら待っていた。それからまた爺やの羊歯を植えつけるのをしばらく見守っていた。しかし今度は黙ったままで。そうして私は老人の動かしている無気味に骨ばった手の甲《こう》を目で追っているうちに、ふいと「巨人《きょじん》の椅子《いす》」のことを思い浮《うか》べた。――私は爺やが羊歯をすっかり植えおえるのを待とうとしないで爺やと別れた。
 それから数分後に、私はその巨《おお》きな岩を目《ま》のあたりに見ることのできる、例の見棄《みす》てられたヴィラの庭のなかに自分自身を見出《みいだ》した。そのヴィラに昔《むかし》住んでいた二人の老嬢《ろうじょう》のことについては爺やも私に何んにも知らせてくれなかった。「ああ、セエモオルさんですか」と言ったきりだった。何か知っていそうだったがもう忘れてしまったらしかった。そうしてただ不機嫌そうに黙っていた。「そうすると、それを知っているのはお前だけだがなあ……」と私は、いま私の下方に横《よこた》わっている高原一帯を隔《へだ》てて、私と向い合っている、遥《はる》か彼方《かなた》の「巨人の椅子」を、あたかもそのあたりに見えない巨人の姿を探してでもいるかのような眼つきで、まじまじと見まもっていた。
 だんだんに日が暮《く》れだした。私のすぐ足許《あしもと》の、いつかその赤い屋根に交尾《こうび》している小鳥たちを見出したヴィラは、もう人が住まっているらしく、窓がすっかり開け放たれて、橙色《だいだいいろ》のカアテンの揺《ゆ》らいでいるのが見えた。ときおり御用聞きがその家のところまで自転車を重そうに押《お》し上げてくるらしい音が私のところまで聞えて来た。もうそろそろ私もこれまでのようにこの空家の庭でぼんやりしていられそうもないなと思った。そんな気がしだすと、何んだかもうこれがその最後の時ででもあるかのように、私は、私のすべての注意を、半分はこの荒廃《こうはい》したヴィラそのものに、半分はこの高みから見下ろせる一帯の美しい村、その森、その花|咲《さ》ける野、その別荘《べっそう》、それからもう霞《かす》みながらよく見えなくなり出した丘々《おかおか》の襞《ひだ》、それだけがまだ黒々と残っている「巨人の椅子」などに傾《かたむ》け出していた。それにも拘《かか》わらず、私はときどきややもするとそれ等《ら》のものことごとくを見失い、そしてまるっきり放心状態になっている自分自身に気がついて、思わずどきっとするのだった。
 突然《とつぜん》、ちょうど私の頭上にある、その周囲だけもうすっかり薄暗《うすぐら》くなっている大きな樅《もみ》の、ほとんど水平に伸《の》びた枝《えだ》の一つに、ばたばたとびっくりするような羽音をさせながら、一羽の山鳩《やまばと》が飛んできて止まった。そうしてそんなところに私のいることに向うでも愕《おどろ》いたように、再びすぐその枝から、薄暗いために一層大きく見えながら、それは飛び去って行った。あたかも私自身の思惟《イデエ》そのものであるかのごとく重々しく羽搏《はばた》きながら、そしてその翼《つばさ》を無気味に青く光らせながら……。
[#改ページ]

   夏

 突然、私の窓の面している中庭の、とっくにもう花を失っている躑躅《つつじ》の茂《しげ》みの向うの、別館《べっかん》の窓
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