ま、彼女《かのじょ》のとうに死んでいる友人と話し合ってでもいると言ったような、空虚《うつろ》な眼《まな》ざしがまざまざと蘇ってくる……と思うと、一|瞬間《しゅんかん》それがきらきらと少女の眼ざしのようにかがやく……家の中からは夕餉《ゆうげ》の支度《したく》をしている、もう一方の婦人の立てる皿《さら》の音が聞えて来る……彼女はふと十字を切ろうとするように手を動かしかけるが、それはほんの下描《したが》きで終ってしまう……彼女にだけは一種の言語をもっていそうな気のする「巨人の椅子」……そんな一方の老嬢のさまざまな姿だけは、私が実際にそれらを見て、そして無意識の裡《うち》にそれらを記憶《きおく》していたのではないかと思えるくらい、まざまざと蘇って来るが、――もう一人の老嬢の方は、いつまでも皿の音ばかりさせていて、容易に私の物語の中には登場して来ようとはしない。私はどうしても彼女の俤《おもかげ》を蘇らすことが出来ないのである。……
 そんな或る午後、私のあてもなくさまよっていた眼ざしが、急に注意深くなって、私の丁度|足許《あしもと》にある夕日のあたっている赤い屋根の上にとまった。何か黒い小さなものがその屋根の頂きからころころと転がって来ては、庇《ひさし》のところから急に小石のように墜落《ついらく》して行くのだった。しばらく間を置いては又それをやっている。私は何だろうと思って、眼を細くしながら見まもっていた。そうしてそれ等が二羽の小鳥であるのを認めた。それ等が交尾《こうび》をしながら、庇のところまで一緒《いっしょ》に転がって来ては、そこから墜落すると同時に、さあと二叉《ふたまた》に飛びわかれているのだった。同じ小鳥たちなのか、他《ほか》の小鳥たちなのか分らないが、それが何回となく繰《く》り返されている。――これは私の物語の中にとり入れてもいいぞ、と思いながら私はそれを飽《あ》かずに見まもっている。――こんな風にして、自分の見つつあるものが自分の構想しつつある物語の中へそのままエピソオドとして溶《と》け込んで来ながら、自分からともすると逃《に》げて行ってしまいそうになる物語の主題を少しずつ発展させているように見える……。
 アカシアの花が私の物語の中にはいって来たのもそんな風であった。それの咲き出す頃が丁度私の田舎暮しもそのクライマックスに達するのではないかというような予覚のする、例の野薔薇《のばら》の莟《つぼみ》の大きさや数を調べながら、あのサナトリウムの裏の生墻《いけがき》の前は何遍《なんべん》も行ったり来たりしたけれど、その方にばかり気を奪《と》られていた私は、其処から先きの、その生墻に代ってその川べりの道を縁《ふち》どりだしているアカシアの並木《なみき》には、ついぞ注意をしたことがなかった。ところが或る日のこと、サナトリウムの前まで来かかった時、私の行く手の小径《こみち》がひどく何時《いつ》もと変っているように見えた。私はちょっとの間、それから受けた異様な印象に戸惑《とまど》いした。私はそれまでアカシアの花をつけているところを見たことがなかったので、それが私の知らないうちにそんなにも沢山《たくさん》の花を一どに咲かしているからだとは容易に信じられなかったのであった。あのかよわそうな枝《えだ》ぶりや、繊細《せんさい》な楕円形《だえんけい》の軟《やわら》かな葉などからして私の無意識の裡に想像していた花と、それらが似てもつかない花だったからであったかも知れない。そしてそれらの花を見たばかりの時は、誰かが悪戯《いらずら》をして、その枝々に夥《おびただ》しい小さな真っ白な提灯《ちょうちん》のようなものをぶらさげたのではないかと言うような、いかにも唐突《とうとつ》な印象を受けたのだった。やっとそれらがアカシアの花であることを知った私は、その日はその小径をずっと先きの方まで行ってみることにした。アカシアの木立の多くは、どうかするとその花の穂先《ほさき》が私の帽子《ぼうし》とすれすれになる位にまで低くそれらの花をぷんぷん匂《にお》わせながら垂らしていたが、中にはまだその木立が私の背ぐらいしかなくって、それが殆ど折れそうなくらいに撓《しな》いながら自分の花を持ち耐《た》えている傍《そば》などを通り過ぎる時は、私は何んだか切ないような気持にすらなった。アカシアの並木は何処《どこ》まで行っても尽《つ》きないように見えた。私はとうとう或る大きなアカシアを撰《えら》んでその前に立ち止まった。私は何とかしてこれらのアカシアの花が私に与えたさっきの唐突な印象を私自身の言葉に翻訳《ほんやく》して置きたいと思ったのだ。それらの花のまわりには無数の蜜蜂《みつばち》がむらがり、ぶんぶん唸《うな》り声を立てていた。しかしそれらの蜜蜂は空気のなかで何処で唸っているともつかなかったし、それに私はさっきから自分の印象をまとめようとしてそれにばかり夢中《むちゅう》になっていたので、そんな唸り声にふと気づく度毎《たびごと》に、何んだか私自身の頭脳《ずのう》がひどい混乱のあまりそんな具合《ぐあい》に唸り出しているのではないかと言うような気もされた。……

     ※[#アステリズム、1−12−94]

 その村の東北に一つの峠《とうげ》があった。
 その旧道には樅《もみ》や山毛欅《ぶな》などが暗いほど鬱蒼《うっそう》と茂っていた。そうしてそれらの古い幹には藤《ふじ》だの、山葡萄《やまぶどう》だの、通草《あけび》だのの蔓草《つるくさ》が実にややこしい方法で絡《から》まりながら蔓延《まんえん》していた。私が最初そんな蔓草に注意し出したのは、藤の花が思いがけない樅の枝からぶらさがっているのにびっくりして、それからやっとその樅に絡みついている藤づるを認めてからであった。そう言えば、そんなような藤づるの多いことったら! それらの藤づるに絡みつかれている樅の木が前よりも大きくなったので、その執拗《しつよう》な蔓がすっかり木肌《きはだ》にめり込んで、いかにもそれを苦しそうに身もだえさせているのなどを見つめていると、私は無気味になって来てならない位だった。――或る朝、私は例の気まぐれから峠まで登った帰り途《みち》、その峠の上にある小さな部落の子供|等《ら》二人と道づれになって降りて来たことがあった。その折のこと、その子供たちはいろいろな木に絡まっている、もっと他の山葡萄だの、通草だのをも私に教えてくれたのだった。子供たちは秋になるとそれ等の実を採りに来るので、それ等のある場所を殆んど暗記していた。それからまた小鳥の巣《す》のある場所を私に教えてくれたりした。彼等は峠で力餅《ちからもち》などを売っている家の子供たちであった。大きい方の子は十一二で、小さい方の子は七つぐらいだった。三人兄弟なのだが、その真ん中の子が村の小学校からまだ帰らぬので峠の下まで迎《むか》えに行くのだと言っていた。
 子供たちは何を見つけたのか急に私を離れて、林のなかへ、下生えを掻《か》き分けながら駈けこんでいった。そうして一本のやや大きな灌木《かんぼく》の下に立ち止まると、手を伸《の》ばしてその枝から赤い実を揉《も》ぎとっては頬張《ほおば》っていた。それは何の実だと訊《き》いたら、「茱萸《ぐみ》だ」と彼等は返事をした。そうして彼等はときどき私の方をふり向いて手招きをしたが、私が下生えに邪魔《じゃま》をされてなかなか其処まで行くことが出来ずにいると、大きい方の子がその実を少しばかり私のために持って来てくれた。私は子供たちの真似《まね》をしてそれを一つずつこわごわ口に入れてみた。なんだか酸《す》っぱかった。私はしかしそれをみんな我慢《がまん》をして嚥《の》み込んだ。そうして子供たちが低い枝にあった実をすっかり食べつくしてしまうと、今度は高くて容易に手の届きそうもない枝をしきりに手《た》ぐろうとしては失敗しているのを、私は根気よく、むしろ面白《おもしろ》いものでも見ているように見入っていた。
 子供たちはまた林の中のいろいろな抜《ぬ》け道を私に教えてくれようとした。そうして急な草深い斜面《しゃめん》をずんずん駈け下りて行った。私はそのあとから危かしそうな足つきでついて行った。ほとんど何処からも日の射《さ》し込んで来ないくらい、木立が密生して枝と枝との入りまじっているところもあった。かと思うと急に私たちの目の前が展《ひら》けて、ちょっとの間何も見えなくなるくらい明るい林のなかの空地があったりした。私たちがそういう林の中の空地の一つへ辿《たど》り着いた時、突然《とつぜん》、一つの小石が何処《どこ》からともなく飛んで来て私たちの足許《あしもと》に落ちた。その飛んで来たらしい方を私たちがまぶしそうに振《ふ》り向いた途端《とたん》、数本の山毛欅《ぶな》を背にしながら、ほとんど垂直なほど急な勾配《こうばい》の藁屋根《わらやね》をもった、窓もなんにもないような異様な小屋の蔭《かげ》へ、小さな黒い人影《ひとかげ》が隠れるのを私たちは認めた。それを知っても、しかし、私の小さな同伴者《どうはんしゃ》たちは何も罵《ののし》ろうとせず、却《かえ》って私に向って何かその言訣《いいわけ》でもしたいような、そしてそれを私に言い出したものかどうかと躊躇《ためら》っているような、複雑な表情をして私の方を見上げているので、私は不審《ふしん》そうに、
「あの子は白痴《ばか》なのかい?」と訊いた。
 子供たちは顔を見合わせていた。それから大きい方の子が低声《こごえ》で私に答えた。
「そうじゃないよ。――あれあ気ちがいの娘《むすめ》だ」
「ふん、それであんな変な家にいるんだね?」
「あれあ氷倉《こおりぐら》だ。――あの向うの家だ」
 しかしその氷倉だという異様な恰好《かっこう》をした藁小屋に遮《さえ》ぎられて、その家らしいものの一部分すら見えないところを見ると、恐《おそ》らく小さな掘立《ほったて》小屋かなんかに違《ちが》いなかった。
「気ちがいっておとっつぁんがかい?」
「……」兄も弟も同時に頭を振った。
「じゃ、おっかさんの方だね?」
「うん……」そう答えてから、兄は弟の方を見い見い誰《だれ》に言うともなく言った。「ときどき川んなかで呶鳴《どな》っているなあ」
「おれも一度向うの川で見た」弟の返事である。
「向うって何処だ?」
「向うの方だ」弟は何んだか自信のなさそうな、いまにも泣き出しそうな顔をして、漠然《ばくぜん》と或《あ》る方向を私に指して見せた。
「そうか」私はわかったような振りをした。「……おとっつあんは何をしているんだ?」
「木樵《きこ》りだなあ」とこんどはまた兄が弟の方を見い見い言った。
「変なとっつあんだ」弟は顔をしかめながらそれに答えた。
 氷倉の蔭から、再びちらりと小娘らしい顔が出たようだったけれど、私たちの方からは丁度逆光線だったので、よくもそれを見分けないうちに、その顔はすぐ引っ込んでしまった。それっきりその小娘は顔を出さなかった。ただ私たちはそれから間もなく異様な叫《さけ》びを耳にした。それはその小娘が私たちを罵ったのか、それとも私たちには見えぬ小屋の中からその小娘に向ってそれが叫ばれたのか、それとも又《また》、その裏の林のなかで山鳩《やまばと》でも啼《な》いたのだろうか? ともかくも、その得体《えたい》の知れぬアクセントだけが妙《みょう》に私の耳にこびりついた。――が、私たちは無言のまま、ただちょっと足を早めながら、その空地を横切って行った。私たちはそれから再び林の中へ這入《はい》った。その中へ這入ると急に薄暗《うすぐら》くなったようだけれど、私たちの眼底にはいまの空地の明るさがこびりついているせいか、暫《しば》らく私たちの周りには一種異様な薄明りが漂《ただよ》っているように見えた。そんな林の中をずんずん先きになって駈《か》け下りて行く子供たちの跡《あと》について行きながら、彼等がいまだに何となく昂奮《こうふん》しているらしいのを、私は漠然と感じていた。そうして、こんな風に彼等と一緒に峠を下りて行く私は一体彼等にはどんな人間に
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