しめ出している、そのベレ帽の画家と同じ男であることには気づかなかった位であった。それほど私はその画家については何んにも見覚えがなかったのだ。私は、私たちの方へぶらぶら歩いてくるその男からは、つとめて私の視線をはずしながら、急に早口にとりとめもないことを彼女に話し出した。私は彼女が私の話に気をとられてその男の方へはあんまり注意しないようにと仕掛《しか》けたのだ。しかし彼女は私の言うことには何んだか気がなさそうに応《こた》えるだけであった。そして彼女は、私がそばにいるのでひどく曖昧《あいまい》にされたような好意に充《み》ちた眼ざしで、その男の方を見つめていた。少くとも私にはそんな気がした。すると、その男の方でも、私の知らないこの前の出会いの際に、彼女と交換《こうかん》した親しげな視線の続きとでも言ったような意味ありげな視線を彼女の方へ投げかけながら、そして思い出し笑いのようなものをふいと浮べながら、軽く会釈《えしゃく》をして、私たちのそばを通り抜けて行った。
私はなんだか急に考えごとでもし出したかのように黙り込んだ。私たちはその橡《とち》の林を通り抜けて、いつか小さな美しい流れに沿い出し
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