余しながら、かれこれ一時間近くもその山径《やまみち》をさまよっていた。そうしてその挙句《あげく》、私がやっと気がついた時には、そんな風に歩きながら自分でも知らずに何度も指で引張っていたものと見えて、私の鼠色《ねずみいろ》のジャケツの肩《かた》のところに出来たその小さな綻《ほころ》びは、もう目立つくらいに大きくなっていた。――私はとうとう踵《きびす》を返して、再び渓流づたいにその山径を下りてきた。そうして私は自分の行く手に、真っ白な、小さな橋と、一本の大きな蝙蝠傘のような樅の木を認めだすと、私はすこし歩みを緩《ゆる》めながら、わざと目をつぶった。その木蔭《こかげ》になって見えずにいるものを、私のすぐ近くに、不意に、思いがけぬもののように見出《みいだ》したかったのだ。……とうとう私は我慢《がまん》し切れずに私の目を開けてみた。しかし彼女は私からまだ十数歩先きのところにいた。そうしてその木蔭にしゃがみながらそれまでパレットを削《けず》っていたらしい彼女が、その時つと立ち上って、私にはすこしも気がつかないように、描きかけのカンバスを画架からとりはずすと、それを道ばたの草の上へいかにも投げやりに
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