がら、私は、自分があんなにも愛した彼の病院の裏側の野薔薇《のばら》の生墻《いけがき》のことを何か切ないような気持になって思い出していた。
 私はヴェランダの床板《ゆかいた》に腰かけたきり、爺やがまた何処《どこ》からか羊歯を運んで来るまで、さまざまな物思いにふけりながら待っていた。それからまた爺やの羊歯を植えつけるのをしばらく見守っていた。しかし今度は黙ったままで。そうして私は老人の動かしている無気味に骨ばった手の甲《こう》を目で追っているうちに、ふいと「巨人《きょじん》の椅子《いす》」のことを思い浮《うか》べた。――私は爺やが羊歯をすっかり植えおえるのを待とうとしないで爺やと別れた。
 それから数分後に、私はその巨《おお》きな岩を目《ま》のあたりに見ることのできる、例の見棄《みす》てられたヴィラの庭のなかに自分自身を見出《みいだ》した。そのヴィラに昔《むかし》住んでいた二人の老嬢《ろうじょう》のことについては爺やも私に何んにも知らせてくれなかった。「ああ、セエモオルさんですか」と言ったきりだった。何か知っていそうだったがもう忘れてしまったらしかった。そうしてただ不機嫌そうに黙っていた。
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