ぽ見もしなかったけれど、今度こそ、私もそれらの花に対して私のありったけの誠実を示すことの出来る機会の来つつあることを心から喜んでいた。そしてそのための私の歓《よろこ》ばしさと言ったら、昔《むかし》の詩人等が野薔薇のために歌った詩句を、口ずさむなんと言うのではなく、それを知っているだけ残らず大きな声で呶鳴《どな》り散らしたいような衝動《しょうどう》にまで、私を駈《か》り立てるのであった。

     ※[#アステリズム、1−12−94]

 私の書こうとしていた小説の主題は、漸《ようや》くその日その日を楽しむことが出来るようになったこんな田舎暮《いなかぐら》しの中では、いよいよ無意味なものに思われて来た。それに、そんなものを書くことは、自分で自分を一層どうしようもない破目《はめ》に陥《おと》し入れるようなものであることにも気がついたのだ。「アドルフ」の例が考えられた。ああいうものにまで私は自分の小さな出来事を引き揚《あ》げたかったのだ。弱気でしかも自我《じが》の強いために自分自身も不幸になり、他人をも不幸にさせたところのアドルフの運命は又《また》、私の運命さながらに思えたからだ。しかし、
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