を離《はな》れた。……しかし懐中電気を手にしていた男の方でも、そんなところに思いがけず私たちが突っ立っていたのに、面喰《めんくら》ったらしかったが、その一人が私だと気がつくと、
「××君じゃない?」と私の名前をためらいがちに言った。そう言われて、私が一層驚いて、まぶしそうに顔をしかめながら振《ふ》り向いて見ると、それは私の学生時代からの友人であった。それと同時に、私はその友人の背後に、若い女たちが二三人、まだ不審《ふしん》そうに闇《やみ》を透《す》かしながらこちらを見つめているのに気がついた。それはその友人の若い妻君や妹たちであった。私は彼女たちにちょいと会釈《えしゃく》をして、それから気まり悪そうに微笑しながら、
「なあんだ、君たちか! ――何時《いつ》、こっちへ来たの?」
「昨日来た。さっき君んところへ寄ったら留守だと言うんで、それから細木さんのところへ行って見たんだ。あそこの家もみんな出払《ではら》っているんだ……」
 私はその友人の言葉を聞き終えるか終えないうちに、本通りの方の曲り角から一かたまりの人影がこっちへ曲って来だしたのを認めた。
「じゃあ、構わないから、僕《ぼく》んところへ寄って行けよ」
 そう言い棄てて、私はさっさと一人で水車の道の方へ歩き出した。そうして私は二三のヴィラの前を通り過ぎてから、その先きの、真っ暗だけれど、私には勝手の知れた、草ぶかい坂道をずんずん一人先きに降りていった。やがて他《ほか》の連中も、そんな私の後から一塊《ひとかたま》りになって、一|箇《こ》の懐中電気を頼《たよ》りにしながら、きゃっきゃっと言って降りて来た。……
「まあ、こんな道あるの、私、ちっとも知らなかったわ」
 坂の中途で、友人の若い妻君がそんなことを誰にともなく言ったらしいのが、もうその時はその小さな坂を降り切ってしまっていた私のところまで、手にとるように聞えて来た。私は丁度、その友人の妻君も確か数年前にその坂道で私の出会った少女たちの中に雑《まじ》っていたことを思い出すともなく思い出していたところだった。――その出会いは私にはあんなにも印象深いのに、嘗《か》つてのその少女たちの一人であった彼女《かのじょ》の方では、(恐《おそ》らく他の少女たちも同様に)そんな私との出会いのことなどは少しも気に留めていないで、すっかり忘れてしまっているのかなあと思った。が、一方ではまた何んだか、そんなことを言って彼女が私をからかっているのじゃないかしら、とそんな気もされた。ひょいと彼女の口を衝《つ》いて出たらしいそんな言葉を私はひとりで気にしながら、いつまでもそっぽを向いて皆の降りてくるのを待っていると、突然、そのうちの誰かが足を滑《すべ》らして、「あっ!」と小さく叫《さけ》んで、坂の中途にどさりと倒《たお》れたらしい気配がした。見上げると、その坂の中途にまだ転《ころ》がっているらしいものがまるで花ざかりの灌木《かんぼく》のように見えた。そして他のものがみんな立ち止まって、その一番最後に降りてきた少女の方をふり返っているのを、私はただぽかんとして眺《なが》めながら、その場を一歩も動こうとしないで突っ立っていた。そうして私は毎朝のようにこの坂を昇《のぼ》り降りしているあの跛《ちんば》の花売りのことをひょっくり思い浮べ、あいつはまた何だってこんなあぶなっかしい坂道をわざわざ選んで通るのだろうかしらと、全然いまの場合とは何んの関係もないようなことを考え出していた。……



底本:「風立ちぬ・美しい村」新潮文庫、新潮社
   1951(昭和26)年1月25日発行
   1987(昭和62)年5月20日89刷改版
   1987(昭和62)年9月10日90刷
初出:「美しい村」は「序曲」「美しい村」「夏」「暗い道」の四篇より成る。
   序曲:「大阪朝日新聞」(「山からの手紙」の表題で。)
   1933(昭和8)年6月25日
   美しい村:「改造」
   1933(昭和8)年10月号
   夏:「文藝春秋」
   1933(昭和8)年10月号
   暗い道:「週刊朝日」第25巻第13号
   1934(昭和9)年3月18日号
初収単行本:「美しい村」野田書房
   1934(昭和9)年4月20日
※初出情報は、「堀辰雄全集第1巻」筑摩書房、1977(昭和52)年5月28日、解題による。
※アルファベットは底本では、すべて斜体で組まれています。
入力:kompass
校正:染川隆俊
2004年1月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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