来て、知らず識《し》らずに身をすり寄せていた私たちを思わず離れさせた。――そんなヴィラの数がだんだん増え出して来たらしいことが、いくらか私たちをほっとさせていた。……
突然、私は心臓をしめつけられたように立ち止まった。私はそれらのヴィラに見覚えがあり出すのと同時に、これをこのまま行けば、私がこの日頃そこに近寄るのを努めて避《さ》けるようにしていた、私の昔《むかし》の女友達の別荘《べっそう》の前を通らなければならないことを認めたのだ。そして私は、その一家のものが二三日前からこの村に来ていることを宿の爺《じい》やから聞いて知っていたのだ。しかしもうさんざん彼女を引っ張りまわした挙句《あげく》だったし、私もかなり歩き疲《つか》れていたので、この上|廻《まわ》り道をする気にはなれずに、私は心ならずもその別荘の前を通り抜けて行くことにした。……だんだんその別荘が近づいて来るにつれ、私はますます心臓をしめつけられるような息苦しさを覚えたが、さて、いよいよその別荘の真白《まっしろ》な柵《さく》が私たちの前に現われた瞬間《しゅんかん》には、その柵の中の灯りの一ぱいに落ちている芝生《しばふ》の向うに、すっかり開け放した窓枠《まどわく》の中から、私の見覚えのある古い円卓子《まるテエブル》の一部が見え、その上には、人々が食事から立ち去ってからまだ間もないと言ったように、丸められたナプキンだの、果物の皮の残っている皿《さら》だの、珈琲茶碗《コオヒイぢゃわん》だのが、まだ片づけられずに散らかったまま、まぶしいくらい洋燈《ランプ》の光りを浴びてきらきらと光っているのを、私は自分でも意外なくらいな冷静さをもって認めることが出来た。いい具合《ぐあい》に其処《そこ》には誰《だれ》も居合わさなかったせいか、それともまたそれは、その瞬間までに、私のなかの不安が、既にその絶頂を通り越《こ》してしまっていたせいであったろうか? ともかくも、私はかなり平静に近い気持で、ただちょっと足を早めたきりで、その白い柵の前を通り過ぎることが出来た。……そんな私の心のなかの動揺《どうよう》には気づこう筈《はず》がなく、彼女は急に早足になった私のあとから、何んだか怪訝《けげん》そうについて来ながら、
「まだ、なかなか?」とすこし不安らしく私に声をかけた。
「うん……ますます見当がつかないんだ」
「そんなことばかし言って……」彼女はそんな私の本気とも冗談ともつかないような態度にとうとう腹を立てたように見える。そうしてそんな私を非難するような口吻《くちぶり》で、
「早く帰らない?」と言った。
「じゃ、一人でお帰りなさい」と私はいまはもう微笑《びしょう》らしいものさえ浮《うか》べながら返事をした。
「意地わる!」
「だって、ほら、其処知っているでしょう?」と私は、私たちの行く手の暗がりの中に小さなせせらぎが音立てているのを指しながら、「水車の道じゃないの?」と快活そうに言った。「まあ、本当に……」と彼女はまだ何んだかそれが信じられないと言った風に自分の周囲を見廻わしていた。私たちはすでに、林のなかを抜け出して、昔、水車場のあった跡に佇《たた》ずんでいたのだった。――そこで道が二股《ふたまた》に分かれて、一方は「水車の道」、もう一方は「本通り」へと通じていた。どっちからでも、もうすぐ其処の宿屋へは帰れるのだが、水車の道の方からだと例のかなり嶮《けわ》しい坂道を下りなければならなかったので、私たちは本通りの方から帰ることにした。で、その後者の道をとって、その突《つ》きあたりから本通りの方へ曲ろうとした途端《とたん》に、私は、その本通りの入口の、ちょうど宿屋の前あたりから、ぽうっと薄明《うすあか》るくなりだしている圏《わ》の中に、五六人、一かたまりになった人影《ひとかげ》がこちらを向いて歩いてくるのを認めた。私はどきっとして立ち止まった。どうやらそれが私の昔の女友達どもらしく見えたからだ。……私は急に、私のそばにいる彼女の腕をとって、向うから苦手の人が来るらしいので捕《つか》まると面倒《めんどう》くさいからと早口に言訣《いいわけ》しながら、いま来たばかりの水車場の方へ引っ返していった。そうして再びさっきの小川の縁《ふち》に並《なら》んで立ちながら、その人達がそのまま本通りの方から来るか、それとも宿屋の裏の坂を抜けてくるか、どっちから来るだろうと、両方の道へ注意を配っていた。……そしてそっちにばかり注意を奪《うば》われていたので、私たちは、私たちの背後の、いましがた其処から私たちの出てきたばかりの林の中から、数人のものが懐中電気《かいちゅうでんき》を照らしながら、出てくるのには全然気がつかずにいた。突然《とつぜん》私たちはその懐中電気のまぶしい光りを浴びせられた。私たちはびっくりしてその小川の縁
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