起して、私たちの方をもの憂《う》げな眼《まな》ざしで眺め出した。――それから私たちは、なおもその流れに沿って、そこいらへんから次第にアカシアの木立に縁《ふち》どられだす川沿いの道を、何処までも真直に進んで行った。それらのアカシアの花ざかりだった頃は、その道はあんなにも足触《あしざわ》りが軟《やわら》かで、新鮮《しんせん》な感じがしていたのに、今はもう、あちこちに凸凹《でこぼこ》ができ、汚《きたな》らしくなり、何んだかいやな臭《にお》いさえしていた。その上、それらのアカシアの木立は、まだみんな小さいので、はげしい日光から私たちを充分《じゅうぶん》に庇《かば》うことが出来ないので、その川沿いの道はそれまでの道よりも一層暑いように思えた。私たちは途中からそれらのアカシアの間をくぐり抜けて、丁度サナトリウムの裏手にあたる、一面に葦《よし》の這っている、いくぶん荒涼《こうりょう》とした感じのする大きな空地へ出た。其処《そこ》からは、村の峠《とうげ》が、そのまわりの数箇《すうこ》の小山に囲繞《いにょう》されながら、私たちの殆んど真向うに聳《そび》えていた。――梅雨期《ばいうき》には、その頃の私自身の心の状態のせいだったかも知れないが、その奥には何かしら神秘的なものがあるように思えてならなかった。その峠も、いまは何物をも燃やさずにはおかないような夏の光線を全身に浴びながら、何んだか炎《ほのお》のようにゆらめいているような感じで、私たちに迫《せま》っていた。……
彼女は、その燃ゆるような山なみを、サナトリウムの赤い屋根を前景に配置しながら、描いてみたいと言った。そしてそれを適当な角度から描くために、そんなはげしい光線の直射するのにも無頓著《むとんじゃく》のように、その空地のやや小高いところを選ぶと、三脚台《さんきゃくだい》を据《す》えて、その上へ腰かけ、斜《なな》めにかぶった運動帽の下からときどきまぶしそうな顔を持ち上げながら、その下図をとりだした。……私は彼女の仕事の邪魔《じゃま》にならないように、いつものように彼女を其処に一人きり残しながら、再びさっきの土手に出て、やや大きなアカシアの木蔭《こかげ》を選んで、そこに腰を下ろしていた。そうして私の前の小さな流れの縁を一羽の鶺鴒《せきれい》が寂《さび》しそうにあっちこっち飛び歩いているのにぼんやり見入っていると、突然、私の背後のサ
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