した。そうして私はこんなにまで私と打ち解け合いだしているこの少女を振《ふ》り棄《す》てて、自分ひとりこの村を立ち去るなんぞということは、到底出来そうもないと考え出していた。
※[#アステリズム、1−12−94]
私の「美しい村」は予定よりだいぶ遅《おく》れて、或る日のこと、漸《や》っと脱稿《だっこう》した。すでに七月も半ばを過ぎていた。そうして私はそれを書き上げ次第、この村から出発するつもりであったのに、私はなおも、そういう一人の少女のために、一日一日と私の出発を延ばしながら、私がその物語の背景に使った、季節前の、気味悪いくらいにひっそりした高原の村が、次第次第に夏の季節《シイズン》にはいり、それと同時にこの村にもぽつぽつと避暑客《ひしょきゃく》たちが這入り込んでくるのを、私は何んだか胸をしめつけられるような気持で、目《ま》のあたりに迎《むか》えていた。
私はしばしばその少女と連れ立って、夕食後など、宿の裏の、西洋人の別荘《べっそう》の多い水車の道のあたりを散歩するようになっていた。そんな散歩中、ときおり、一月《ひとつき》前までは私と一しょに遊び戯《たわむ》れたりしたことさえある村の子供たちと出会《であ》うようなこともあったが、彼等は私たちの傍を素知らぬ顔をして通り抜《ぬ》けていった。もう私を覚えていないのだろうか、それとも私がそんな見知らない少女と二人づれなのを異様に思ってそうするのだろうか? ……しかしそれらの子供たちも、そのうちだんだんに、そんな林の中で最初のうちは私たちのよく見かけたものだった、さまざまな小鳥などと共に、その姿をほとんど見せないようになった。そしてその代り、私たちとすれちがいながら、私たちに好奇的な眼《まな》ざしを投げてゆく、散歩中の人々や、自転車に乗った人々などがだんだんに増えて来た。それらの中には私と顔見知りの人たちなども雑《まじ》っていた。私はいつかこんなところをひょっくり昔の女友達にでも出会いはしないかと一人で気を揉《も》んでいたが、ときどき、そんな散歩の途中《とちゅう》に、ふと向うからやってくる人々のうちに遠見がどこかそれらに似たような人があったりすると、私は慌《あわ》てて、その人たちを避《さ》けるために、道もないような草の茂《しげ》みのなかへ彼女を引っ張りこんで、何んにも知らない彼女を駭《おどろ》かせるようなこと
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