余しながら、かれこれ一時間近くもその山径《やまみち》をさまよっていた。そうしてその挙句《あげく》、私がやっと気がついた時には、そんな風に歩きながら自分でも知らずに何度も指で引張っていたものと見えて、私の鼠色《ねずみいろ》のジャケツの肩《かた》のところに出来たその小さな綻《ほころ》びは、もう目立つくらいに大きくなっていた。――私はとうとう踵《きびす》を返して、再び渓流づたいにその山径を下りてきた。そうして私は自分の行く手に、真っ白な、小さな橋と、一本の大きな蝙蝠傘のような樅の木を認めだすと、私はすこし歩みを緩《ゆる》めながら、わざと目をつぶった。その木蔭《こかげ》になって見えずにいるものを、私のすぐ近くに、不意に、思いがけぬもののように見出《みいだ》したかったのだ。……とうとう私は我慢《がまん》し切れずに私の目を開けてみた。しかし彼女は私からまだ十数歩先きのところにいた。そうしてその木蔭にしゃがみながらそれまでパレットを削《けず》っていたらしい彼女が、その時つと立ち上って、私にはすこしも気がつかないように、描きかけのカンバスを画架からとりはずすと、それを道ばたの草の上へいかにも投げやりに、乱暴なくらいにほうり出したところだった。ほうり出された大きなカンバスは、しかしひとりでにふんわりとなりながら、草の上へ倒《たお》れて行った。それを見ると、私は彼女のそばへ駈《か》けつけた。
「僕が持っていて上げよう」
「いいわ……いつもひとりでするんですから」
「意地わる!」
「意地わるでしょう」
私は彼女とそんな風に子供らしく言い合いながら、無理にカンバスを引ったくると、それを自分の肩にあてがいながら、彼女と並《なら》んで村の街道《かいどう》を宿屋の方へと歩いて行った。ときおり私たちは散歩をしている西洋人や村の子供たちとすれちがった。彼等《かれら》のもの珍《めず》らしそうな視線は私たちを――殊《こと》にまだこの村に慣れない彼女を気づまりにさせているらしかった。私は私で、そういう彼女をつとめて気軽にさせようと思って、私の空いている方の手を自分の肩の上へやりながら、
「ほら、こんな穴が出来ちゃった……さっき一人で散歩しているとき野薔薇《のばら》にひっかかったのさ」
そう言って、その肩の穴がもっと大きくなるのも構わずに、それをよく彼女に見せようとして、自分のジャケツを引張って見せたり
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