一定の時刻に、絵具箱をぶらさげながら、その少女が水車の道の方へと昇《のぼ》ってゆくのを見逃《みのが》したことはなかった。丁度、午前中のその時刻の光線の具合《ぐあい》で、木洩《こも》れ日《び》がまるで地肌《じはだ》を豹《ひょう》の皮のように美しくしている、その小さな坂を、ややもすると滑《すべ》りそうな足つきで昇ってゆくその背の高い、痩せぎすな後姿を見送りながら、その上の水車の道に出て、さて、それから彼女はどの小径《こみち》をどう通って、どんな場所へ絵を描きに行くのだろうかと、そこいらの林のなかの小径が実にややこしく、私自身も初めてこの村へ来た当時は、何度も道に迷ってしまった位ではあったし、それにまたそんなことからして一人の少女と私との奇妙《きみょう》な近づきが始まったりしたので、私は、絵を描く場所を捜《さが》しながらそんな見知らぬ小径をさまよっているらしい彼女のことを、何となく気づかわしく思っていた。
※[#アステリズム、1−12−94]
しかし私は最初のうちはその少女を、唯、そんな風に私の窓からだの、或《ある》いは廊下《ろうか》などでひょっくり擦《す》れちがいざま、目と目とを合わせないようにして、そっと偸《ぬす》み見ていたきりであった。そんな具合で、私は彼女の顔を、まだ一度も、まともに眺《なが》めたことがなく、それに私の見たときは、いつも静止していないで、しかもそれぞれに異った角度から光線を受けていたせいか、見る度《たび》毎《ごと》に、その顔は変化していた。或る時は、そのやや真深かにかぶった黄いろい麦藁帽子《むぎわらぼうし》の下から、その半陰影《はんいんえい》のなかにそれだけが顔の他の部分と一しょに溶《と》け込《こ》もうとしないで、大きく見ひらかれた眼が、きらきらと輝《かがや》いていた。またそんな帽子をかぶらずに、庭園の中などで顔いっぱいに強い光線を浴びながら、まぶしそうにその眼を半分|閉《と》ざしているおかげで、平生の特徴を半分失いながら、そしてその代りにその瞬間《しゅんかん》までちっとも目立たないでいた脣《くちびる》だけが苺《いちご》のように鮮《あざや》かに光りながら、ほとんど前のとは別の顔に変ってしまうこともあった。
そのうちに私たちがやっと短い会話を取り交《か》わすようになり、それと共に、屡《しば》しば、私は彼女の顔をまともから眺めるように
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