ゅうぜん》され始めるので――)その次ぎの日の、その少女の父の出発、それから他《ほか》にはまだ一人も滞在客《たいざいきゃく》のないそんな別館での、その少女と二人っきりの、背中合わせの暮らし……。
しかし私は毎日のように、ほとんど部屋に閉じこもったきりで、自分の仕事に没頭《ぼっとう》していた。その私の書きつつある「美しい村」という物語は、六月頃からこの村に滞在している私が、そんなまだ季節はずれの、すっからかんとした高原で出会ったことを、それからそれへと書いて行ったものだった。そうして私は丁度いま、私がそれまで昔の恋人《こいびと》に対する一種の顧慮《こりょ》から、その物語の裏側から、そして唯《ただ》、それによってその淡々《たんたん》とした物語に或る物悲しい陰影《ニュアンス》を与《あた》えるばかりで満足しようとしていた、この村での数年前の彼女たちとの花やかな交際の思い出、ことにこの村での彼女たちとの最初の歓《よろこ》ばしい出会いを、とある日、道ばたに咲き揃《そろ》っている野薔薇《のばら》の花がまざまざと私のうちに蘇《よみがえ》らせ、それが遂《つい》に思いがけぬ出口を見つけた地下水のように、その物語の静かな表面に滾々《こんこん》と湧《わ》きあがってくるところを書き終えたばかりのところだった。そうしてそういう昔のさまざまな歓ばしい出会いの追憶《ついおく》に耽《ふけ》っている暇《ひま》もなく、すでに私から巣立っていったそれらの少女たち、ことにそのうちの一人との気まずい再会を恐れて、季節に先立ってこの村を立ち去ろうとする、そんな私の悲しい決心を、その物語の結尾として、私はこれから書こうとしているところだった。
私の新しい部屋は、別館の二階の奥《おく》まったところで、南向きの窓があり、そしてその窓からは数本の大きな桜の幹ごしに向うの小高い水車の道に面しているいくつかのヴィラの裏側がちらちらと見えていた。そしてその窓のすぐ下を、私がそれらの少女たちと初めて出会ったところの、例の抜け道が、小さな坂になりながら、灌木《かんぼく》のなかに細々と通っているのだった。……私は私のやりかけている仕事から気持をそらすまいとして、私とたった二人きりでその別館の中に暮らしだしているその未知の少女とは、わざと背中を向き合わせてばかりいた。その癖《くせ》、私は私の窓のすぐ下を通っているその坂道を、毎朝、
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