息《ためいき》をつきながら私が雨戸を繰ろうとした途端に、その節穴《ふしあな》から明るい外光が洩《も》れて来ながら、障子《しょうじ》の上にくっきりした小さな楕円形《だえんけい》の額縁《がくぶち》をつくり、そのなかに数本の落葉松《からまつ》の微細画《ミニュアチュア》を逆さまに描いているのを認めると、私は急に胸をはずませながら、出来るだけ早くと思って、そのため反《かえ》って手間どりながら雨戸を開けた。私が寝床《ねどこ》のなかで雨音かと思っていたのは、それ等の落葉松の細かい葉に溜《たま》っていた雨滴が絶えず屋根の上に落ちる音だったのだ。私はさて、まぶしそうな眼つきで青空を見上げた。私は寝間着のまま一度庭のなかへ出てみたが、それから再び部屋に帰り、そしてフラノの散歩服に着換《きか》えながら、早朝の戸外へと出て行った。私は教会の前を曲って、その裏手の橡《とち》の林を突《つ》き抜けて行った。私はときどき青空を見上げた。いかにもまぶしそうに顔をしかめながら。
 私が小さな美しい流れに沿うて歩き出すと、その径《みち》にずっと笹縁《ささべり》をつけている野苺《のいちご》にも、ちょっと人目につかないような花が一ぱい咲いていて、それが或る素晴《すば》らしいもののほんの小さな前奏曲《プレリュウド》だと言ったように、私を迎えた。私は例の木橋の上まで来かかると、どういう積りか自分でも分からずに二三度その上を行ったり来たりした。それから、漸《や》っと、まるで足が地上につかないような歩調で、サナトリウムの裏手の生墻《いけがき》に沿うて行った。私は最初のいくつかの野薔薇の茂《しげ》みを一種の困惑《こんわく》の中にうっかりと見過してしまったことに気がついた。それに気がついた時は、既《すで》に私は彼等の発散している、そして雨上りの湿《しめ》った空気のために一ところに漂いながら散らばらないでいる異常な香《かお》りの中に包まれてしまっていた。私は彼等の白い小さな花を見るよりも先に、彼等の発散する香りの方を最初に知ってしまったのだ。しかし私は立ち止ろうとはせずになおも歩き続けながら、私は今すれちがいつつある一つの野薔薇の上に私のおずおずした最初の視線を投げた。私は、私の胸のあたりから何かを訴《うった》えでもしたいような眼つきで私をじっと見上げている、その小さな茂みの上に、最初二つ三つばかりの白い小さな花を認めた
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