《さ》くけれど、ああ、おまえの心ばかりは枯《か》れ果てた……」
そんな鬱陶《うっとう》しいような日々も、相変らず私の小説の主題は私からともすると逃げて行きそうになるが、私はそれをば辛抱《しんぼう》づよく追いまわしている。私が最初に計画していたところの私自身を主人公とした物語を書くことはとっくに断念していたけれど、私はそれの代りに、その物語の主人公には一体どんな人物を選んだらいいのか、それからしてもう迷っていた。……どうにか一方の老嬢《ろうじょう》は私の物語の中に登場させることは出来ても、もう一方の方は台所で皿《さら》の音ばかりさせているきりで、何時まで経《た》ってもヴェランダに出て来ようとしない二人の老嬢たちの話、冬になるとすっかり雪に埋《うず》まってしまうこんな寒村に一人の看護婦を相手に暮《く》らしている老医師とその美しい野薔薇《のばら》の話、ときどき気が狂《くる》って渓流のなかへ飛び込《こ》んでは罵《ののし》りわめいているという木樵《きこり》の妻とその小娘の話、――そういうような人達のとりとめもない幻像《イマアジュ》ばかりが私の心にふと浮《うか》んではふと消えてゆく……
或る午後、雨のちょっとした晴れ間を見て、もうぽつぽつ外人たちの這入りだした別荘《べっそう》の並《なら》んでいる水車の道のほとりを私が散歩をしていたら、チェッコスロヴァキア公使館の別荘の中から誰かがピアノを稽古《けいこ》しているらしい音が聞えて来た。私はその隣《とな》りのまだ空いている別荘の庭へ這入りこんで、しばらくそれに耳を傾《かたむ》けていた。バッハのト短調の遁走曲《フウグ》らしかった。あの一つの旋律《メロディ》が繰《く》り返され繰り返されているうちに曲が少しずつ展開して行く、それがまた更に稽古をしているために三四回ずつひとところを繰り返されているので、一層それがたゆたいがちになっている。……それを聴《き》いているうちに、私はまるで魔《ま》にでも憑《つ》かれたような薄気味のわるい笑いを浮べ出していた。そのピアノの音のたゆたいがちな効果が、この頃《ころ》の私の小説を考え悩《なや》んでいる、そのうちにそれがどうやら少しずつ発展して来ているような気もする、そう言った私のもどかしい気持さながらであったからだ。
※[#アステリズム、1−12−94]
或る朝、「また雨らしいな……」と溜
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