きりだった。が、その次の瞬間《しゅんかん》には、私はその同じ茂みのうちに殆ど二三十ばかりの花と、それと殆ど同数の半ば開きかかった莟《つぼみ》とを数えることが出来た。それはごく僅《わず》かの間だったが、そんな風に私が自分の視線のなかに自分自身を集中させてしまってからと言うもの、そんなにも簇《むら》がっているそれ等の花がもう先刻《さっき》のように好い匂《におい》がしなくなってしまっていることに私は愕《おどろ》いた。そうして改めてそれを嗅《か》ごうとすると、そうするだけ一層それは匂わなくなって行くように見えた。――私は注意深く歩き続けながら、順ぐりにいくつかの野薔薇の木とすれちがって行ったが、とうとう私はいつかレエノルズ博士がその上に身を跼《こご》めていた一つの茂みの前まで来た。私は思わずそこに足を停《と》めた。――
 そうして私はその野薔薇の前に、ただ茫然《ぼうぜん》として、何を考えていたのか後で思い出そうとしても思い出せないようなことばかり考えていた。どれよりも最も多くの花を簇がらせているように見えるその野薔薇とそっくりそのままのものを何処《どこ》かで私は一度見たことがあるように思えて、それをしきりに思い出そうとしていたかのようでもあった。――それはすこし長い放心状態の後では、しばしば私にやってくるところの一種独特の錯覚《さっかく》であった。放心のあまりに現在そのものの感じがなくなり、私は現在そのものをしきりに思い出そうとして焦《あせ》っているのかも知れなかった。――それから私は再び我に返って歩き出した。私の沿うて行く生墻には、それらの野薔薇が、同じような高さの他の灌木《かんぼく》の間に雑《まじ》りながら、いくらかずつの間を置いてはならんでいるのだった。あたかも彼等が或る秘密な法則に従ってそう配置されてでもいるかのように。そうしてその微妙《びみょう》な間歇《かんけつ》が、ほとんど足が地につかないような歩調で歩きつつある私の中に、いつのまにか、ほとんど音楽の与えるような一種のリズミカルな効果を生じさせていた。……そうしてそれに似た或る思い出をこんどはさっきと異って、鮮明《せんめい》に私のうちに蘇《よみがえ》らせるのであった。……十年ぐらい前の或る夏休みに、私が初めてこの村へ来た時のこと、宿屋の裏から水車場のある道の方へ抜けられるようになっている、やっと一人《ひとり》だけ
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