ま、彼女《かのじょ》のとうに死んでいる友人と話し合ってでもいると言ったような、空虚《うつろ》な眼《まな》ざしがまざまざと蘇ってくる……と思うと、一|瞬間《しゅんかん》それがきらきらと少女の眼ざしのようにかがやく……家の中からは夕餉《ゆうげ》の支度《したく》をしている、もう一方の婦人の立てる皿《さら》の音が聞えて来る……彼女はふと十字を切ろうとするように手を動かしかけるが、それはほんの下描《したが》きで終ってしまう……彼女にだけは一種の言語をもっていそうな気のする「巨人の椅子」……そんな一方の老嬢のさまざまな姿だけは、私が実際にそれらを見て、そして無意識の裡《うち》にそれらを記憶《きおく》していたのではないかと思えるくらい、まざまざと蘇って来るが、――もう一人の老嬢の方は、いつまでも皿の音ばかりさせていて、容易に私の物語の中には登場して来ようとはしない。私はどうしても彼女の俤《おもかげ》を蘇らすことが出来ないのである。……
 そんな或る午後、私のあてもなくさまよっていた眼ざしが、急に注意深くなって、私の丁度|足許《あしもと》にある夕日のあたっている赤い屋根の上にとまった。何か黒い小さなものがその屋根の頂きからころころと転がって来ては、庇《ひさし》のところから急に小石のように墜落《ついらく》して行くのだった。しばらく間を置いては又それをやっている。私は何だろうと思って、眼を細くしながら見まもっていた。そうしてそれ等が二羽の小鳥であるのを認めた。それ等が交尾《こうび》をしながら、庇のところまで一緒《いっしょ》に転がって来ては、そこから墜落すると同時に、さあと二叉《ふたまた》に飛びわかれているのだった。同じ小鳥たちなのか、他《ほか》の小鳥たちなのか分らないが、それが何回となく繰《く》り返されている。――これは私の物語の中にとり入れてもいいぞ、と思いながら私はそれを飽《あ》かずに見まもっている。――こんな風にして、自分の見つつあるものが自分の構想しつつある物語の中へそのままエピソオドとして溶《と》け込んで来ながら、自分からともすると逃《に》げて行ってしまいそうになる物語の主題を少しずつ発展させているように見える……。
 アカシアの花が私の物語の中にはいって来たのもそんな風であった。それの咲き出す頃が丁度私の田舎暮しもそのクライマックスに達するのではないかというような予覚のする
前へ 次へ
全50ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング