《ずいぶん》好きでもあり、そういう出来事に出遇《であ》ったということでその人を羨《うらや》ましくも思って来たが、私自身でそう言うものを書いてみようとも、又、書けそうにも思えなかった。が、それだけ一層、今の私はそういう牧歌的なもの[#「牧歌的なもの」に傍点]を書いてみたいと思い立ったのである。――私はしかし、それを書くためには、いま自分の暮らしつつあるこの村を背景にするよりほかはなく、と言って一月《ひとつき》や二月ぐらいの滞在中にそういう出来事が果して私の身辺に起り得《う》るものかどうか疑わしかった。莫迦莫迦《ばかばか》しいことだが、私は何度も林の中の空地で無駄《むだ》に待ち伏《ぶ》せたものだった。男の子のように美しい田舎の娘がその林の中からひょっこり私の前に飛び出して来はしないかと。……そんな空《むな》しい努力の後、やっと私の頭に浮《うか》んだのは、あのお天狗《てんぐ》様のいる丘《おか》のほとんど頂近くにある、あの見棄《みす》てられた、古いヴィラであった。あのヴィラを背景にして、そこに毎夏を暮らしていた二人の老嬢《ろうじょう》のいかにも心もとなげな存在を自分の空想で補いながら書いて行く――それなら何んだか自分にもちょっと書けそうな気がした。この間その家の荒廃《こうはい》した庭のなかへ這入《はい》り込《こ》んで其処《そこ》から一時間ばかり眺《なが》めていた高原の美しい鳥瞰図《ちょうかんず》だの、一かどのニイチェアンだった学生の時分からうろおぼえに覚えていた zweisam という、いかにもその老嬢たちに似つかわしいドイツ語だのを、ひょっくりと思い浮べながら……。
或る夕方、私は再びそのヴィラまで枯葉《かれは》に埋《うず》まった山径《やまみち》を上って行った。庭の木戸は私がそうして置いたままに半ば開かれていた。私の捨てた煙草《たばこ》の吸殻《すいがら》がヴェランダの床《ゆか》に汚点《しみ》のように落ちていた。私は日の暮れるまで、其処から林だの、赤い屋根だの、丘だの、それから真正面に聳《そび》えている「巨人《きょじん》の椅子《いす》」だのを、一々暗記してしまうほど熱心に見つめていた。……ときどき、こんな夕暮れ時に、二人のうちの私のよく覚えている方の神々しいような白髪《はくはつ》の老婦人が、このヴェランダの、そう、丁度私の坐《すわ》っているこの場所に腰《こし》を下ろしたま
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