あとでそれを思い出そうとしても思い出せないような変にむつかしい姿勢をしていることがあるものだが、私の行く手を塞《ふさ》いでいるその人も恐《おそ》らくそんな時の姿勢をしているのにちがいなかった。……気がついて見ると私のすぐ傍《かたわ》らにもあった野薔薇の木を、それが私の見たいと思っている野薔薇の木のほんのデッサンでしかないように見やりながら、私はそのままじっと佇《たたず》んでいた。――やっとその人影は身を起し、蝙蝠傘をちょっと持ちかえてから歩き出した。そうしてずんずん霧のなかに暈《ぼや》けて行った。
 私も歩き出しながら、やっとその野薔薇の小さな茂《しげ》みの前に達した。そうして今しがたその人のしていたような難《むつか》しい姿勢を真似《まね》ながら、その上に身を跼《こご》めてみた。そうすればその人の心の状態までが見透《みす》かされでもするかのように。その小さな茂みはまだ硬《かた》い小さな莟《つぼみ》を一ぱいにつけながら、何か私に訴《うった》えでもしたいような眼つきで私を見上げた。私は知らず識《し》らずの裡《うち》にそれらの莟を根気よく数えたり、そっと持ち上げてみたりしている自分自身に気がついた。ふとさっきの人のしていた異様な手つきがまざまざと蘇《よみがえ》った。そうしてその小さな茂みがマイ・ミクスチュアらしい香《かお》りを漂《ただよ》わせているのに気がついたのもそれと殆《ほと》んど同時だった。湿《しめ》った空気のために何時《いつ》までもそのこんがらかった枝にからみついて消えずにいるその香りは、まるでその小さな茂みそのものから発せられているかのように思われた。
――私はいつもパイプを口から離《はな》したことのないレエノルズさんのことを思い出した。そして今の人影はその老医師にちがいないと思った。そう言えば、さっきから向うの方に霧のために見えたり隠《かく》れたりしている赤茶けたものは、そのサナトリウムの建物らしかった。
 私は再び霧のなかの道を、神々《こうごう》しいような薄光りに包まれながら、いくら歩いてもちっとも自分の体が進まないようなもどかしさを感じながら、あてもなく歩き続ていた。私の心はさっき霧の中から私を訴えるような眼つきで見上げた野薔薇のことで一杯《いっぱい》になっていた。私はそれらの白い小さな花を私の詩のためにさんざん使って置きながら、今日までその本物をろくすっ
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