白い柵はいつ出来たの?」と訊《き》いた。
「あれですか……あれは一昨年でした」
「一昨年ね……」
私はそれっきり黙《だま》っていた。爺やのいじくっている植木の一つへ目をやりながら。それからやっとそれに白い花らしいものの咲いているのに気がつきながら訊いた。
「それは何の花だい?」
「これはシャクナゲです」
「シャクナゲ? ふうん、そう言えば、じいやさん、このへんの野薔薇《のばら》はいつごろ咲くの?」
「今月の末から、まあ、来月の初めにかけてでしょうな」
「そうかい、まだ大ぶあるんだね。――一体、どのへんが多いんだい?」
「さあ……あのレエノルズさんの病院の向うなんか……」
「ああ、じゃ、あそこかな、あの絵葉書にあった奴《やつ》は。……」
その翌朝は、霧《きり》がひどく巻いていた。私はレエンコートをひっかけて、まだ釘づけにされている教会の前を通り、その裏の橡《とち》の林の中を横切って行った。その林を突き抜けると、道は大きく曲りながら一つの小さな流れに沿うて行った。しかしその朝はその流れは霧のためにちっとも見えなかった。そしてただ、せせらぎの音ばかりが絶えず聞えていた。私はやがて小さな木橋を渡った。それからその土手道《どてみち》は、こんどは今までとは反対の側を、その流れに沿うて行くのであった。さて、その土手道へ差しかかろうとした途端、私はふと立ち止まった。私の行く手に何者かが異様な恰好《かっこう》でうずくまっているのが仄見《ほのみ》えたので。その異様なものは、霧のなかで私自身から円光のように発しているかに見える、私を中心にして描いた円状の薄明《うすあか》りの、丁度その円周の上にうずくまっているのだった。しかし霧は絶えず流れているので、或《あ》る時は一層|濃《こ》いのが来てその人影《ひとかげ》をほとんど見えなくさせるが、やがてそれが薄らいで行くにつれてその人影も次第にはっきりしてくる。漸っとそれが蝙蝠傘《こうもりがさ》の下で、或る小さな灌木《かんぼく》の上に気づかわしげに身を跼《こご》めている、西洋人らしいことが私には分かり出した。もっと霧が薄らいだとき、私はその人の見まもっているのが私の見たいと思っていた野薔薇の木らしいことまで分かった。向うでは私のことに気づかないらしかった。そのため、誰《だれ》にも見られていないと信じながら何かに夢中になっている時、ややもすると、
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