してさ迷いながら、あちこちの灌木の枝には注意さえすれば無数の莟《つぼみ》が認められ、それ等はやがて咲《さ》き出すだろうが、しかしそれ等は真夏の季節《シイズン》の来ない前に散ってしまうような種類の花ばかりなので、それ等の咲き揃《そろ》うのを楽しむのは私|一人《ひとり》だけであろうと言う想像なんかをしていると、それはこんな淋《さび》しい田舎暮《いなかぐら》しのような高価な犠牲《ぎせい》を払《はら》うだけの値《あたい》は十分にあると言っていいほどな、人知れぬ悦楽《えつらく》のように思われてくるのだった。そうして私はいつしか「田園交響曲《でんえんこうきょうきょく》」の第一楽章が人々に与える快《こころよ》い感動に似たもので心を一ぱいにさせていた。そうして都会にいた頃《ころ》の私はあんまり自分のぼんやりした不幸を誇張《こちょう》し過ぎて考えていたのではないかと疑い出したほどだった。こんなことなら何もあんなにまで苦しまなくともよかったのだと私は思いもした。そうして最近私を苦しめていた恋愛《れんあい》事件をそっくりそのままに書いてみたら、その苦しみそのものにも気に入るだろうし、私にはまだよく解《わか》らずにいる相手の気持もいくらか明瞭《はっきり》しはしないかと思って、却《かえ》ってそういう私自身の不幸をあてにして仕事をしに来た私は、ために困惑《こんわく》したほどであった。私はてんでもうそんなものを取り上げてみようという気持すらなくなってしまったのだ。で、私は仕事の方はそのまま打棄《うっちゃ》らかして、毎日のように散歩ばかりしていた。そうして私は私の散歩区域を日毎《ひごと》に拡げて行った。

 或る日私がそんな散歩から帰って釆ると、庭掃除《にわそうじ》をしていた宿の爺《じい》やに呼び止められた。
「細木さんはいつ頃こちらへお見えになります?」
「さあ、僕《ぼく》、知らないけれど……」
 それは私が何日頃この地を出発するかを聞いたのと同じことであるのに爺やは気づきようがなかったのだ。
「去年お帰りになるとき」と爺やは思い出したように言った。「庭へ羊歯《しだ》を植えて置くようにと言われたんですが、何処へ植えろとおっしゃったんだか、すっかり忘れてしまいましたもんで……」
「羊歯をね」私は鸚鵡《おうむ》がえしに言った。それから私は例の白い柵《さく》に取り囲まれたヴィラを頭に浮べながら、「あの
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