子は小さな弟を連れ去りながら、私の方をば振り向こうともしなかった。
※[#アステリズム、1−12−94]
私は毎日のように、そのどんな隅々《すみずみ》までもよく知っている筈《はず》だった村のさまざまな方へ散歩をしに行った。しかし何処へ行っても、何物かが附加《つけくわ》えられ、何物かが欠けているように私には見えた。その癖《くせ》、どの道の上でも、私の見たことのない新しい別荘の蔭《かげ》に、一むれの灌木が、私の忘れていた少年時の一部分のように、私を待ち伏《ぶ》せていた。そうしてそれらの一むれの灌木そっくりにこんがらかったまま、それらの少年時の愉《たの》しい思い出も、悲しい思い出も私に蘇って来るのだった。私はそれらの思い出に、或《あるい》は胸をしめつけられたり、或は胸をふくらませたりしながら歩いていた。私は突然《とつぜん》立ち止まる。自分があんまり村の遠くまで来すぎてしまっているのに気がついて。――そんなみちみち私の出遇《であ》うのは、ごく稀《まれ》には散歩中の西洋人たちもいたが、大概《たいがい》、枯枝を背負《せお》ってくる老人だとか蕨《わらび》とりの帰りらしい籃《かご》を腕《うで》にぶらさげた娘たちばかりだった。それ等のものはしかし、私にとってはその村の風景のなかに完全に雑《まじ》り込んで見えるので、少しも私のそういう思い出を邪魔《じゃま》しなかった。もっとも時たま、或る時は私があんまり子供らしい思い出し笑いをしているのを見て、すれちがいざまいきなり私に声をかけて私を愕《おどろ》かせたり、又或る時は向うから私に微笑《ほほえ》みかけようとして私の悲しげな顔を見てそれを途中で止《や》めてしまうようなこともあるにはあったが……。
そんな風に思い出に導かれるままに、村をそんな遠くの方まで知らず識《し》らず歩いて来てしまった私は、今更のように自分も健康になったものだなあ、と思った。私はそういう長い散歩によって一層生き生きした呼吸をしている自分自身を見出した。それにこの土地に滞在してからまだ一週間かそこいらにしかならないけれど、この高原の初夏の気候が早くも私の肉体の上にも精神の上にも或る影響《えいきょう》を与《あた》え出していることは否《いな》めなかった。夏はもう何処にでも見つけられるが、それでいてまだ何処という的《あて》もないでいると言ったような自然の中を、こう
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