の前を通り過ぎて行った。それを見送っているうち、ふとその鋭《するど》い横顔から何んだか自分も見たことがあるらしいその女の若い娘《むすめ》だった頃の面影《おもかげ》が透《す》かしのように浮んで来そうになった。
私はその白い柵のあるヴィラを離れた。私の帽子の上に不意に落ちて来た桜の実が私のうちに形づくり、拡げかけていた悲しい感情の波紋《はもん》を、今しがたの気づまりな出会《であい》がすっかり掻《か》き乱してしまったのを好い機会にして。
私は村はずれの宿屋に帰って来た。私がその宿屋に滞在《たいざい》する度にいつも私にあてがわれる離れの一室。同じように黒ずんだ壁《かべ》、同じような窓枠《まどわく》、その古い額縁《がくぶち》の中にはいって来る同じような庭、同じような植込み、……ただそれらの植込みに私の知っている花や私の知らない花が簇《むら》がり咲いているのが私には見馴《みな》れなかった。それはそれでまた私を侘《わ》びしがらせた。母屋《おもや》の藤棚《ふじだな》から、風の吹くごとに私のところまでその花の匂《におい》がして来た。その藤棚の下では村の子供たちが輪になって遊んでいた。私はその子供たちの中に昔よく遊んでやったことのある宿屋の子供がいるのを認めた。そのうちに他《ほか》の子供たちは去った。そしてその子供だけがまだ地面に跼《こご》んだまま一人で何かして遊んでいた。私はその子の名前を呼んだ。その子はしかし私の方を振《ふ》り向こうともしなかった。それほど自分の遊びに夢中《むちゅう》になっているように見えた。私がもう一度その名前を呼ぶと、やっとその子はうす汚《よご》れた顔を上げながら私に言った。「太郎ちゃんは何処《どこ》にいるか知らないよ」――私はその時初めてその小さな子供は私の呼んだ男の子の弟であるのに気がついたのだ。しかし何という同じような顔、同じような眼差《まなざし》、同じような声。……暫《しば》らくしてから「次郎! 次郎!」と呼びながら、一人の、ずっと大きな、見知らない男の子が庭へ這入《はい》って来るのを私は見た。ようやく私になついて私の方へ近づいて来そうになったその小さな弟は、それを聞くと急いでその方へ駈《か》けて行ってしまった。私の方では、その大きな見知らないような男の子が昔私と遊んだことのある子供であるのを漸《や》っと認め出していた。しかし、その生意気ざかりの男の
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