しおどき》だったので、水はずっと向うまで引いていたのだった。
 私もその真似をしようとした。自分なら湖水まで楽に届かせて見せると思ったが、途中で急に気がついて薪を棄てた。そんな事をして胸でも痛み出したら、それこそ取り返しのつかない身体だった。
 妻はそういう私にすぐ気がつくと、寂しそうに顔を伏せていた。

    *

 湖の水がずっと向うまで引いているのをいい事に、私達は渚づたいに宿の方へ帰って往った。
 葭《よし》がところどころに群生している外には、私達の邪魔になるようなものは何物もなかった。一箇処、岸の崩れたところがあって、其処に生えていた水楢《みずなら》の若木が根こそぎ湖水へ横倒しにされながら、いまだに青い葉を簇《むら》がらせていた。私達はその木を避けるために、殆ど水とすれすれのところを歩かなければならなかった。が、その時でさえ、湖の水は私達の足もとで波ひとつ立てず、又、何のにおいさえもさせなかった。それでいて、湖全体が何処か奥深いところで呼吸《いき》づいているらしいのが、何か異様に感ぜられた。
「Zweisamkeit! ……」そんな独逸語《ドイツご》が本当に何年ぶりかで私の
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