しそう云うだけで、妻を起しもしないでさっさと着換えをしだした。そうしてなんという事はなしに、きょうはこりあ好い日になるぞと一人で極めて、階下に往って顔を洗って来ると、例の小さな本を持ってヴェランダに出た。が、さて、こうやって待ち構えたような気分でいると、別に好い事なんぞは何処からも涌《わ》いて来そうもない。第一、けさは朝霧が下りていると云うのでもなしに、変にうす曇っていて、空も湖水も一めんに鈍色《にびいろ》だ。妙高にも、黒姫にも雲が無くて、輪廓《りんかく》だけがぼおっとぼやけて見えている。なんだかこのままこうして一日中曇ってしまいそうな、そんな心細い曇り方だ。
 曇ったら曇ったで、余所《よそ》へいってもしようがあるまいから、晴れるまで此処に頑張って、静に本でも読んで暮らすのも好い。それが一番おれらしい。何、この本を読みにわざわざこの湖畔まで出掛けて来たとおもったって好いわけだ。
 私はそう腹を据えると、妻はそのままゆっくり寝かせておく事にして、ヴェランダの籐椅子《とういす》に靠《もた》れながら、曇り空の下で、例の小さな横文字の本を開いた。それはドロステ・ヒュルスホオフという独逸《ドイツ
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