しおどき》だったので、水はずっと向うまで引いていたのだった。
 私もその真似をしようとした。自分なら湖水まで楽に届かせて見せると思ったが、途中で急に気がついて薪を棄てた。そんな事をして胸でも痛み出したら、それこそ取り返しのつかない身体だった。
 妻はそういう私にすぐ気がつくと、寂しそうに顔を伏せていた。

    *

 湖の水がずっと向うまで引いているのをいい事に、私達は渚づたいに宿の方へ帰って往った。
 葭《よし》がところどころに群生している外には、私達の邪魔になるようなものは何物もなかった。一箇処、岸の崩れたところがあって、其処に生えていた水楢《みずなら》の若木が根こそぎ湖水へ横倒しにされながら、いまだに青い葉を簇《むら》がらせていた。私達はその木を避けるために、殆ど水とすれすれのところを歩かなければならなかった。が、その時でさえ、湖の水は私達の足もとで波ひとつ立てず、又、何のにおいさえもさせなかった。それでいて、湖全体が何処か奥深いところで呼吸《いき》づいているらしいのが、何か異様に感ぜられた。
「Zweisamkeit! ……」そんな独逸語《ドイツご》が本当に何年ぶりかで私の口を衝《つ》いて出た。――|孤独の淋しさ《アインザアムカイト》とはちがう、が殆どそれと同種の、いわば|差し向いの淋しさ《ツワイザアムカイト》と云ったようなもの、そんなものだって此の人生にはあろうじゃあないか?
「そうだろう、ねえ、お前……」私は口の中でそんな事をつぶやくように言って見た。
「何あに?」と、ひょっとしたら妻が私に追いついて訊き返しはしないかしらと思った。しかし妻にはそれが聞えよう筈もなく、私の少しあとから黙ってついて来るだけだった。

    *

 夕方、食堂でまた例の外人の娘達と一しょになった。いつも同じように食堂へはいって来て、いつも同じように卓に向い、そして食事の間はいつも同じように言葉少なに話し合っている。向うでもこっちの事をそれと同じように考えているかも知れない。
 こんやはセロリが皿の上に姿を見せないと思ったら、スウプの中にはいっていやあがった。食事中、いつまでもその匂が口に残っていた。
 私達は二階の部屋へ、その外人の娘達はそのまま外へ出て往った。
 私はこんや中にはどうしても「猶太《ユダヤ》びとの※[#「木+無」、第3水準1−86−12]《ぶな》」を読《よ》み了《お》えてしまうつもりだった。妻を先きに寝かせて、夜遅くまで一人でそれを読んでいた。――フリイドリッヒとヨハンが村から姿を消してしまってから、三十年近い月日が立つ。(その間にフリイドリッヒの母親も死に、村の人々もすっかり変ってしまうが、猶太人がその下で殺された※[#「木+無」、第3水準1−86−12]の木だけは昔のままに残っている。近在の猶太人等がそれを買いとって、その幹には呪詛《じゅそ》の詞《ことば》が銘せられてあった。)或る雪のクリスマスの夜、その村に一人の浮浪人がやって来る。それはヨハンのなれの果てらしかった。しばらく村の人達からいたわられて暮らしていたが、或る日、又ゆくえ知れずになってしまう。森のなかの例の※[#「木+無」、第3水準1−86−12]の木に彼が縊死体《いしたい》となって発見せられたのはそれから間もなくの事だった。彼は実はフリイドリッヒだったという噂が立ちはじめる。――その※[#「木+無」、第3水準1−86−12]の木に猶太人等の銘した次の詞がその物語の最後を結んでいる。――「此処に汝の近づく時は、嘗《かつ》て汝が我に為せし事を汝は汝自身に為さん。」
 漸《や》っと十一時近くにそれを読み了えて、手水《ちょうず》をしに下りて往くと、丁度例の娘達が外から帰って来たところだった。いま時分まで何処をうろついていたのだろうと、訝《いぶか》しそうに二人が靴を脱ごうとしているところをちらりと見た。二人はそういう私に気づいたようだったが、ポロシャツの方はさあらぬ顔をして靴を脱いでいた。が、もう一人の薔薇色《ばらいろ》の方は私をなんだかこわい目つきをして見上げた。

    *

 翌朝はとうとう霧雨になり出していた。山々も見えず、湖水は一めんに白く霧《き》らっていた。丁度好い引上げ時だと思って、帰りの自動車を帳場にいた男に頼んだ。なんでも例の娘達もその晩の夜行で一人は神戸へ、一人は横浜へ立つ事になっているので、いよいよあすから此のホテルも冬まで閉じるそうだった。
 此のホテルには電話が無いので、ちょっと自動車を頼んで来るといって、その男は霧雨のなかを自転車で出かけて往った。
 私達はそれから又二階に上っていって、例のラケット入れに身のまわりの品を入れてしまうと、私はもうなす事もないので、ぼんやりと机に頬杖をついていた。妻は母親のところへ此処へ来てから初め
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