はそこに屈《かが》んで何かしきりにごそごそやり出している。其処に誰かの穿《は》き棄《す》てていったらしい草鞋《わらじ》を拾って、それを自分のぼろぼろになったのと穿き換えているのである。浮浪者でもなさそうだが、何処か近在へ働きにいった帰りにしては様子が変だ。
「何者だろうね?」
「可哀そうのようだわ」
「でも、おれにはああいうのはやり切れない。何んとかもう少しならないのかなあ」
 私はそう口では云いさしながら、ふいとドロステ・ヒュルスホオフの物語に出てくる、運命の圧力のために理性の勝った女からだんだん愚かな老人に変ってゆく母親のマルガレエテの事を思い出した。
 湖岸の船宿にちょっと立寄って、声をかけたが返事がないので、どのみち駄目そうだとおもって、帰ろうとしかけると、漸《や》っと出てきた赤ん坊を負ったお上さんらしいのに呼び戻された。モオタア船を出して貰えまいかと云うと、これもしばらく何か怪訝そうに私達を見つめていたが、――どうもそれはこのへんの村人達の困ったようなときの表情なのか知らん? ――やがて私達に言うのには、ゆうべ向うの岸の村で婚礼があって、あるじはそれに招《よ》ばれて、モオタア船に乗って出掛けたまま、いまだに戻らないのだそうだった。それからお上さんは又云った。あすの朝早く出征する方を向う岸へ渡す約束がしてあるのだが、それに間に合うように帰って貰わなければ本当に困ってしまう、とその困っている事情の相談相手にまで私達をしかねなかったので、私達は忽々《そうそう》にそこから引き上げた。

    *

「しようがないから、ひとつこの岸を歩けるだけ歩いて往って見ようよ。Y・W・C・Aのところまで往けるかな?」
「そんなにお歩きになっても大丈夫?」
 私達は、そんな事を云いながら、こんどは外人部落とは反対に、Y・W・C・Aの寮のある方へ湖岸づたいに歩き出した。
 湖に沿うて上ったり下ったりしている径《みち》で、ときどき急に湖と並行したり、それから又林のなかへはいったりしていた。木の幹と幹の間から湖水の面が鈍く光っていた。いつか斑尾が私達から見えなくなり、妙高と黒姫とが二つ並んで真正面に見えて来た。
「感心に歩けるわね。」
「うん、きょうみたいに曇っていた方が歩くには好いよ。」
 だんだん林が長くなって来た。そんな林の中には、この夏キャンプでもした者があると見え、ところどころに荒らされた跡があった。木の枝などが無残に折られたままになっていたりした。そういう場所の傍を通るときは、私達はどちらからともなく少し足早に通り過ぎた。
 急に私達の前が明るくなって、其処には山寄りに一軒、ちょっとした小屋が閉されたまま立っていた。それがY・W・C・Aの寮にちがいなかった。そして其処から湖寄りには、柵《さく》をめぐらした砂地があり、そこにも小さな掘立小屋があった。私達は柵を押しあけて、構わずにそっちの方へはいって往った。
 其処は湖水が何処よりもぐっと深く入り込んでいた。そのせいか、湖水もここいらあたりが一番奥まった感じだった。一体、斑尾と黒姫の太古の噴火のため、その間の谷が殆ど埋まって、ただ一つ昔のままの姿をとどめているのが、この野尻湖だという事だった。此処の入江に立っていると、こんもりと茂った木々の間に、いかにも伝説のありげな黒姫山が何か遠いような感じで見えた。斑尾山はいま丁度私達の背後から迫っているのだろう。
 私達が其処で山だの湖だのを眺めながら、その岸の砂地をぶらぶらしていると到る処に焚火《たきび》の燃え残りのようなものが残っていた。
「これはボンファイアをした跡だわ……」妻はしきりに自分の女学生時代の事を思い出しているらしく、いくぶん上ずったような声で私に云った。
「ボンファイアって何だい?」私はそういう妻から努めて話を引き出すように訊《き》いた。
「まあ、ボンファイアを知っていらっしゃらなかったの? 呆れたわね。」妻は少しはしゃいでいた。「夕方になってから、みんなで焚火をしてね、そのまわりで最初はお祈りをしたり、讃美歌を唄ったりして、礼拝をするのよ。――それが終ると、ソオセエジを串焼きにして麺麭《パン》にはさんで食べたりしながら、その焚火のまわりで踊ったりなんかして遊ぶんだわ。素敵だわよ。……」
 私は少してれ臭そうに聞きながら、最後に言った。「ふん、ソオセエジをその焚火で串焼きにして食べるのかい? それは好いなあ。」
 が、私の心の裡《うち》に、こういう山に囲まれた湖畔で、そんな焚火を背景にして、大勢の若い娘たちが生の悦《よろこ》びに充《み》ち溢《あふ》れながら遊び戯れる光景を、殆ど眼底にしみつくように、鮮かに浮ばせた。
 妻はそこに落ちていた燃え残りの薪を拾って、湖水の方へほうった。それは水まで届かないで砂地に落ちた、引汐時《ひき
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