しおどき》だったので、水はずっと向うまで引いていたのだった。
私もその真似をしようとした。自分なら湖水まで楽に届かせて見せると思ったが、途中で急に気がついて薪を棄てた。そんな事をして胸でも痛み出したら、それこそ取り返しのつかない身体だった。
妻はそういう私にすぐ気がつくと、寂しそうに顔を伏せていた。
*
湖の水がずっと向うまで引いているのをいい事に、私達は渚づたいに宿の方へ帰って往った。
葭《よし》がところどころに群生している外には、私達の邪魔になるようなものは何物もなかった。一箇処、岸の崩れたところがあって、其処に生えていた水楢《みずなら》の若木が根こそぎ湖水へ横倒しにされながら、いまだに青い葉を簇《むら》がらせていた。私達はその木を避けるために、殆ど水とすれすれのところを歩かなければならなかった。が、その時でさえ、湖の水は私達の足もとで波ひとつ立てず、又、何のにおいさえもさせなかった。それでいて、湖全体が何処か奥深いところで呼吸《いき》づいているらしいのが、何か異様に感ぜられた。
「Zweisamkeit! ……」そんな独逸語《ドイツご》が本当に何年ぶりかで私の口を衝《つ》いて出た。――|孤独の淋しさ《アインザアムカイト》とはちがう、が殆どそれと同種の、いわば|差し向いの淋しさ《ツワイザアムカイト》と云ったようなもの、そんなものだって此の人生にはあろうじゃあないか?
「そうだろう、ねえ、お前……」私は口の中でそんな事をつぶやくように言って見た。
「何あに?」と、ひょっとしたら妻が私に追いついて訊き返しはしないかしらと思った。しかし妻にはそれが聞えよう筈もなく、私の少しあとから黙ってついて来るだけだった。
*
夕方、食堂でまた例の外人の娘達と一しょになった。いつも同じように食堂へはいって来て、いつも同じように卓に向い、そして食事の間はいつも同じように言葉少なに話し合っている。向うでもこっちの事をそれと同じように考えているかも知れない。
こんやはセロリが皿の上に姿を見せないと思ったら、スウプの中にはいっていやあがった。食事中、いつまでもその匂が口に残っていた。
私達は二階の部屋へ、その外人の娘達はそのまま外へ出て往った。
私はこんや中にはどうしても「猶太《ユダヤ》びとの※[#「木+無」、第3水準1−86−12]《ぶな》」を読《
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