よ》み了《お》えてしまうつもりだった。妻を先きに寝かせて、夜遅くまで一人でそれを読んでいた。――フリイドリッヒとヨハンが村から姿を消してしまってから、三十年近い月日が立つ。(その間にフリイドリッヒの母親も死に、村の人々もすっかり変ってしまうが、猶太人がその下で殺された※[#「木+無」、第3水準1−86−12]の木だけは昔のままに残っている。近在の猶太人等がそれを買いとって、その幹には呪詛《じゅそ》の詞《ことば》が銘せられてあった。)或る雪のクリスマスの夜、その村に一人の浮浪人がやって来る。それはヨハンのなれの果てらしかった。しばらく村の人達からいたわられて暮らしていたが、或る日、又ゆくえ知れずになってしまう。森のなかの例の※[#「木+無」、第3水準1−86−12]の木に彼が縊死体《いしたい》となって発見せられたのはそれから間もなくの事だった。彼は実はフリイドリッヒだったという噂が立ちはじめる。――その※[#「木+無」、第3水準1−86−12]の木に猶太人等の銘した次の詞がその物語の最後を結んでいる。――「此処に汝の近づく時は、嘗《かつ》て汝が我に為せし事を汝は汝自身に為さん。」
漸《や》っと十一時近くにそれを読み了えて、手水《ちょうず》をしに下りて往くと、丁度例の娘達が外から帰って来たところだった。いま時分まで何処をうろついていたのだろうと、訝《いぶか》しそうに二人が靴を脱ごうとしているところをちらりと見た。二人はそういう私に気づいたようだったが、ポロシャツの方はさあらぬ顔をして靴を脱いでいた。が、もう一人の薔薇色《ばらいろ》の方は私をなんだかこわい目つきをして見上げた。
*
翌朝はとうとう霧雨になり出していた。山々も見えず、湖水は一めんに白く霧《き》らっていた。丁度好い引上げ時だと思って、帰りの自動車を帳場にいた男に頼んだ。なんでも例の娘達もその晩の夜行で一人は神戸へ、一人は横浜へ立つ事になっているので、いよいよあすから此のホテルも冬まで閉じるそうだった。
此のホテルには電話が無いので、ちょっと自動車を頼んで来るといって、その男は霧雨のなかを自転車で出かけて往った。
私達はそれから又二階に上っていって、例のラケット入れに身のまわりの品を入れてしまうと、私はもうなす事もないので、ぼんやりと机に頬杖をついていた。妻は母親のところへ此処へ来てから初め
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