字の看板の一部だけが見えていた。なんだかちょっと洒落《しゃれ》た店のようで、何だろうとおもって、その裏木戸に近づいてみると、白樺の木にかくれていた半分は「…… Grocery」――なあんだ八百屋だったのか。だが、こんな家の裏手にぴょこんと八百屋が一軒あるきりなんて云うのはおかしいと思って、ずんずんその裏木戸を押しあけてみると、そこにはその八百屋をはじめ雑貨屋だの、理髪店だの、氷屋だのの看板を出した掘立小屋が一塊りに立っている。そして其処は道が三叉《みつまた》になって、東の方から上って来た道がそこで分かれて、一方は今の別荘の裏を通って外人部落のなかに消え、もう一方はこれは昔ながらの村道らしく、西に向って爪先下りに下がっていって、二町程先きで森のなかにはいっている。森の上には黒姫山が大きく立ちはだかっている。その左手に、やや遠くになって見えるのは戸隠山だろう。ここは、本当に信濃路という感じだ。その三叉になったところには、さっきの掘立小屋のほかに、昔ながらの百姓家が数軒立ち並んで一小部落をなしている。それらの薄ぎたない百姓家は、外人部落なんぞとは何んの交渉も無さそうにいずれもそっちには強情に背中を向けて、昔のまんま黒姫や戸隠の方ばかりを向いている。いかにも一茶のような俳人を生んだ田舎らしい面がまえだ。そういう田舎田舎した部落と、例のハイカラな外人部落とが、一つの木戸ごしに、お互に無頓着《むとんじゃく》そうに背中合わせになっている。そういうところが、私にはなんとも云えず面白かった。
 どうやらお天気も当分このまま保ちそうで、薄日が相変らず射したり消えたりしている。私達は暫くその三叉路《さんさろ》のところでぐずぐずしていたが、いつまでもそうしていてもしようがないので、東に向う道を歩いて往って見る事にした。なんだかその笹で縁どられた道の感じでは、それが何処かでホテルの裏を通っている道と一しょになっていそうだった。その道を歩いて往くと、すぐ南の方に飯綱山が木の間ごしに穏かな姿を見せ出した。

    *

 昼飯の後、私は自分の部屋に閉《と》じ籠《こも》ったり、ヴェランダの籐椅子《とういす》に足を伸ばしたりしながら、大へんお行儀悪く「猶太《ユダヤ》びとの※[#「木+無」、第3水準1−86−12]《ぶな》」を読みつづける。物語はいよいよクライマックスらしい村の或る婚礼の場面になる。
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