その席で、息子のフリイドリッヒの運命は遂に荒れ狂う。先ず、彼と大の仲好しの、彼と瓜二つに似た、孤児のヨハンが台所からバタアを盗み損って皆から追い出される。それだけでもフリイドリッヒは引け目を感じたのに、皆に見せびらかした銀時計の事から、金貸の猶太人にみんなの前で辱しめられる。その晩、その猶太人が森のなかの大きな※[#「木+無」、第3水準1−86−12]の下に殺されている。フリイドリッヒもヨハンもゆくえ知れずになる。老いた母だけがあとに淋しく残る……
私はとうとう物語の結末だけを残して、その本を閉じた。そうして籐椅子に靠《もた》れながら、疲れた目をしばらく湖水の面に注いでいた。相変らず薄曇った空、薄ぼんやりした山、鈍く光っている湖、――それ等はしかし、どうやらそれなりに落ち着きを持ち出しているように見えた。
同宿の外人の娘達も、午後中、何処へも出ずに無聊《ぶりょう》そうに部屋でごろごろ横になっているらしい。そのうち二人で本でも読み出したらしい。なんの本だか、薔薇色《ばらいろ》の娘の方が低い声でそれを音読している。ポロシャツの娘はそれを聞きながら、ときどき他愛ない笑い声を立てる。
「おい」と私は丁度ヴェランダに出て来た妻をかえり見た。「ちょっと向う岸に渡って見たいなあ。下の貸ボオト屋へ訊《き》いたら、なんとかして呉れないかしらなあ。」
「往って見ましょうか?」
妻は本を読むおつき合いをさせられるよりかその方が賛成だった。私達はホテルを出ていった。前の急な坂を下りかかると、その途中で、一人の、空の畚《もっこ》を背負い、息苦しそうにすっかり胸をはだけた、よぼよぼのおじいさんとすれちがいざま、何か問いかけられた。少くともそんな気がして、二人で一緒にふりむくと、そのおじいさんは何やら喘《あえ》ぎ喘《あえ》ぎ私達に向って物を言っているのだが、それがなかなか聞きとれなかった。なんでも私達がいま道で、馬を曳いて往った自分の娵《よめ》に往き遭ったろうが、どの位先きへ往ったかを知りたいらしい事が漸《ようや》く分った。私達はすぐ上のホテルから飛び出してきたので、そんなものは見かけなかったから、知らないと云うと、なんだか怪訝《けげん》そうな顔をして、いつまでも私達を見つめていた。それ以上どうにも私達にはしようがないので、そのまま坂を下りはじめながら、もう一度ふり返って見ると、おじいさん
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