。私は厠《かわや》にはいっていた。その小さな窓からは、井戸端《いどばた》の光景がまる見えになった。誰かが顔を洗いにきた。私が何気なくその窓から覗《のぞ》いていると、青年が悪い顔色をして歯を磨《みが》いていた。彼の口のまわりには血がすこし滲《にじ》んでいた。彼はそれに気がつかないらしかった。私もそれが歯茎から出たものとばかり思っていた。突然、彼がむせびながら、俯向《うつむ》きになった。そしてその流し場に、一塊《ひとかたま》りの血を吐いていた……
その日の午後、誰にもそのことを知らせずに、私は突然T村を立ち去った。
エピロオグ
地震! それは愛の秩序まで引っくり返すものと見える。
私は寄宿舎から、帽子もかぶらずに、草履《ぞうり》のまんま、私の家へ駈《か》けつけた。私の家はもう焼けていた。私は私の両親の行方《ゆくえ》を知りようがなかった。ことによると其処《そこ》に立退《たちの》いているかも知れないと思って、父方の親類のある郊外のY村を指《さ》して、避難者の群れにまじりながら、私はいつか裸足《はだし》になって、歩いて行った。
私はその避難者の群れの中に、はからずもお前た
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