ノ一つずつその熱帯植物のようなものが飾られてあるに過ぎない
何処かにこんな奇妙な珈琲店《コオフィイてん》があったような気もされてくる
しかしその中には誰もいない 全く空虚《からっぽ》だ
ちょっと這入《はい》って見てそれが何だか確かめてみたい
そんな処《ところ》に勝手に這入り込んでいて叱《しか》られたら
ままよ、それまでだ……と思って私は臆病《おくびょう》な探偵のようにこわごわその中に忍び込む
私がガラス戸を押し開けるや否や、ぷんと好い※[#「均−土」、第3水準1−14−75]がする
それがさっき象のさせていた好い※[#「均−土」、第3水準1−14−75]とそっくりだ
さっきの※[#「均−土」、第3水準1−14−75]が私の鼻に蘇《よみがえ》って来たのではないかと思えた位
何ともかとも云いようのないほど好い※[#「均−土」、第3水準1−14−75]だ
矢張り誰もいない 私はこわごわ一つの卓《テエブル》の傍に腰を下ろしながら
その※[#「均−土」、第3水準1−14−75]を捜す……私はそのとき始めて
熱帯植物の鉢植のかげに一つの灰皿があって
それに烟草《たばこ》の吸殻のようなものが一つ置き忘られてあるのに気がつく
それから一すじの白い烟りが細ぼそと立ち昇っているのである
どうやらそれから私をすっかり魅している※[#「均−土」、第3水準1−14−75]が発せられているらしい
私はまた象のことを思い浮べる
そして漸っといまあの象が阿片《あへん》の広告であったことに気がつき出す
「ははあ、それだから誰にも分らなかったんだな
なあんだ此処《ここ》は阿片窟《あへんくつ》なのか……」
私はあらためて店の中を見まわしてみる
やっぱり誰もいない 空虚だ
いかにも静かだ ひっそりしている
それでいてつい今しがたまで客が何組かあったのだが
それが皆立ち去ったすぐ跡だと云うような気がされる
店の空気がひどく疲れを帯びているのが感ぜられる
誰もいないのに人気が漂っている それが鬼気のようにぞっと感ぜられる
何かしら惨劇のあった跡の静けさはこんなものじゃないかしらと思えてくる
もしかしたら今まで此処で客同志の間に殺人事件かなんかあって
その跡始未のために皆ここの店のものまで残らず出かけて行っていて
それでこんな空虚《からっぽ》なのかも知れん……
そう思って店のなかを見廻すと、一向それらしい形跡はない
椅子やテエブルもちゃんとした位置にある 鉢植も倒れていない
それでいてどう云うものかそれ等《ら》の置き方に妙な不自然さがあるのだ
あちこちへ投げ飛ばされたり、倒されたりしたのをいかにも急《いそ》いで
元のままに直して取り繕ったような不自然さがあるのだ
――そんなことを空想しながら、私はぼんやり頬杖《ほおづえ》をついて
今にも燃えきって無くなりそうな灰皿の吸殻を見つめている
それから発せられている※[#「均−土」、第3水準1−14−75]は私の空想を大いに刺戟《しげき》している
「おれは遅参者だ……一足遅れたばかりに、きっとおれを喜ばせたに相違ない、何かの惨事に立会い損《そこな》った不運者だ」
そこでもって私の夢のフィルムがぴんと切れてしまう……
それで私は読者諸君にも、ただこんな風に
「まだその顰《しか》め面《つら》をしている
今起ったばかりの惨事の古代的な静けさ」を
お目にかけるよりしかたがないのだ
[#ここで字下げ終わり]
2 鳥料理
こんなことを書いている分には、頭はすこしも疲れないが、ずんずんひとりで先きへ行ってしまう私の言葉に遅れまいとしてせっせ[#「せっせ」に傍点]とペンを動かしている私の手が痛くて閉口だ。其処《そこ》でいま、ちょっとペンを置いて、葡萄酒《ぶどうしゅ》を一杯ひっかけ、Westminster[#「Westminster」は斜体]を二三本吹かしたところだ。―― Westminster[#「Westminster」は斜体]と云えば、こんな※[#「均−土」、第3水準1−14−75]《におい》など比較にならん位、いましがた私の書いたばかりの夢のなかの※[#「均−土」、第3水準1−14−75]は好い※[#「均−土」、第3水準1−14−75]だったし、これから私の書こうとする夢のなかで私の飲んだ葡萄酒(?)は、こんなトリエスト産の葡萄酒よりもずっと上等な味だった。どうやら夢の中での方が私はずっとましな暮らしをしていると見える。……さて、これから私の書こうとする夢は、私の夢のなかの第二の種類だ。この夢は、唯《ただ》、単調だが底の知れないような、深味のある色(甚《はなは》だ不完全な言い方だがそれはピカソの或る絵のような色なのだ)で塗り潰《つぶ》されていると思っていて頂きたい。
私はこの夢のことを久しく忘れていたが、去年の冬、神戸へ
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