sって Hotel Essoyan[#「Hotel Essoyan」は斜体]という露西亜《ロシア》人の経営している怪しげなホテルに泊った時、ひょっくりそれを思い出した。私がそのホテルのことを写生した「旅の絵」という短篇の中にも登場をするが、そのホテルに一人の美しくなったり、醜くなったりする、変な少女がいて、或る晩十二時過ぎに私がそのホテルに帰って来たら、私の部屋に面している薄暗い廊下のはずれに、そこに二階へ通ずる階段があるのだが、その階段へ片足をかけながらその少女が寝巻のまま立っていて、部屋へ這入《はい》ろうとしかけていた私の方をじっと見ている。……その時突然、この夢が私のうちに蘇《よみがえ》ったのだ。私は気味悪くなって、それっきり自分の部屋に這入ってしまったが、その夢の中では私はもっと大胆だった。
その夢というのは、やはりそんなような怪しげなホテルが背景になっている。少女も出てくる。それはしかしもっと可愛らしい少女であった。……とある山の手の町で、私は一人の少女とすれちがいながら、なんだか私には分らない合図をされた。そんな気がした。そこで私はその少女のあとを追って行った。そうしてその少女が暗い裏通りの怪しげなホテルの中へ這入るのを突き止めた……
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私もちょっと躊躇《ちゅうちょ》をしたのち、そのホテルの中へはいって行った
それから少女の昇って行ったらしい凸凹《でこぼこ》した階段をこわごわ昇って行った
もう古くなっている階段は一番人に歩かれた真ん中の所だけがすり切れていてとても歩き難《にく》い
私はそのためそれを昇りきるのにかなり手間《てま》どった
漸《ようや》っと昇りきってみると薄暗い廊下がいくつかの部屋に通じていたが
その一つのドアが今ばたんと閉《しま》ってその向うに
人影が消えるのを私は確かに見たような気がした
私はそのドアの前へ立ってノックをした
返事がない 私はもう一度ノックをした
ドアの向う側にやっと足音が近づいてきた そしてそれが一人の老婆の前に開かれた
かの女は醜悪そのもののような恰好《かっこう》で私の方を胡散臭《うさんくさ》そうに見ている
私は咄嗟《とっさ》に思いついて、鳥料理を食いに来たのだと言った
さっき階段を上るとき、なかば剥《は》げた壁に「鳥料理……」(下の字は読めぬ)
という小さな招牌《かんばん》の出ていたのを思い出したのである
それを聞くと、老婆はしぶしぶながら私を部屋の中へ入れてくれた
その部屋の中には古い穴だらけの卓《テエブル》が一つあるきりだった
私はその前に坐りながら部屋の中を見廻した
さっきの少女の姿は何処《どこ》にも見えない 念のために卓の下を覗《のぞ》いたが矢張り居ない
「確かにこの部屋へ這入った筈《はず》だが……」と思いながら
向うの低い竃《かまど》の上に掛けてある大きな鍋《なべ》の中を
何やら厭《いや》らしく掻《か》き廻している老婆の後姿を見ているうちに
この婆《ばばあ》は魔法使いかも知れんぞと私は疑い出した
何処かへあの可愛らしい少女を隠してしまやがった
ことによるとあの少女を何かに変形させてしまったのかも知れないぞ
としたら一体それはどれかしらん? と私はきょときょと部屋を見廻している
その時老婆が鍋の中から何やらを皿に移して運んで来た
罅《ひび》の入った皿の上に鶏の足らしい骨がちょこんと載っているきりだ
「ちぇっ、こんなものを食わせやあがるのか?」と仏頂面《ぶっちょうづら》をしていると
老婆はにやにや笑いながらソオスの壜《びん》を持ってきて
それを私の皿にぶっかけるのだ
私はさっき知ったかぶりで此奴《こいつ》を名ざしで這入って来たのだから
否《いや》でも応でもこいつを食わなければなるまい
私は不承々々そいつを一口|頬張《ほおば》った 妙な味がする しかし悪くはない味だ
そこでもう一口頬張ろうとした途端に ふと
異形《いぎょう》をして蒸気の立ちのぼっている鍋の傍《そば》の 棚《たな》の上に
一個の葡萄酒《ぶどうしゅ》の壜らしいものが置かれてあるのが私の目に入った
今まで空壜《あきびん》だろう位に思っていたがよく見ると
八分目ほどの葡萄酒らしいものが這入っていてそれがひとりで無気味に揺れている
老婆はそれを気にするようにときどき変な目つきでそれを見ている
私はまだ何やら鍋の中を掻き廻している彼女に何気なさそうに言った
「婆さん、おれにその葡萄酒を一杯くれ」
すると老婆は解《わか》ったように私に目で合図をして(何んて厭らしい目つきだろう!)
しかし自分の手許《てもと》の壜はそのままにして、向うの戸棚へ他の壜を取りに行った
いよいよもってこの壜が怪しいぞ!
この壜がきっとあの少女なのかも知れん? あの少女がこの壜に這入っている?
そこで私は魔女が向うむきにな
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