て、五つか六つぐらい物語の筋を熱心に立ててみたが、どれもこれも、いざ手にとって仔細《しさい》に見ていると、大へんな難物のように思えてくるばかりなので、とうとう観念して、寝床にはいった。
[#地から1字上げ]十月十四日、ヴェランダにて
ゆうべは少し寐《ね》られなかった。そうして寐られぬまま、仕事のことを考えているうちに、だんだんいくじがなくなってしまった。もう天平時代の小説などを工夫するのは止めた方がいいような気がしてきた。毎日、こうして大和の古い村や寺などを見ていたからって、おいそれとすぐそれが天平時代そのままの姿をして僕の中に蘇《よみがえ》ってくれるわけはないのだもの。それには、もうすこし僕は自分の土台をちゃんとしておかなくては。古代の人々の生活の状態なんぞについて、いまみたいにほんの少ししか、それも殆ど切れ切れにしか知っていないようでは、その上で仕事をするのがあぶなっかしくってしようがない。それは、ここ数年、何かと自分の心をそちらに向けて勉強してきたこともしてきた。だが、あんな勉強のしかたでは、まだまだ駄目なことが、いま、こうやってその仕事に実地にぶつかって見て、はっきり分かったというものだ。ほんの小手しらべのような気もちでとり上げようとした小さな仕事さえ、こんなに僕を手きびしくはねつけるのだ。僕はこのままそれに抵抗していても無駄だろう。いさぎよく引っ返して、勉強し直してきた方がいい。……
そんな自棄《やけ》ぎみな結論に達しながら、僕はやっと明け方になってから寐入った。
それで、けさは大いに寐坊をして、髭《ひげ》も剃《そ》らずに、やっと朝の食事に間に合った位だ。
きょうはいい秋日和《あきびより》だ。こういうすがすがしい気分になると、又、元気が出てきて、もう一日だけ、なんとか頑張ってやろうという気になった。やや寐不足のようだが、小説なんぞ考えるのには、そういう頭の状態の方がかえって幻覚的でいいこともある。
どうも心細い事を云い初めたものだと、お前もこんな手紙を見ては気が気でないだろう。だが、もう少し辛抱をして、次ぎの手紙を待っていてくれ。何処でそれを書く事になるか、まだ僕にも分からない。……
[#地から1字上げ]午後、秋篠寺にて
いま、秋篠寺《あきしのでら》という寺の、秋草のなかに寐そべって、これを書いている。いましがた、ここのすこし荒れた御堂にある伎芸天女《ぎげいてんにょ》の像をしみじみと見てきたばかりのところだ。このミュウズの像はなんだか僕たちのもののような気がせられて、わけてもお慕わしい。朱《あか》い髪をし、おおどかな御顔だけすっかり香《こう》にお灼《や》けになって、右手を胸のあたりにもちあげて軽く印を結ばれながら、すこし伏せ目にこちらを見下ろされ、いまにも何かおっしゃられそうな様子をなすってお立ちになっていられた。……
此処はなかなかいい村だ。寺もいい。いかにもそんな村のお寺らしくしているところがいい。そうしてこんな何気ない御堂のなかに、ずっと昔から、こういう匂いの高い天女の像が身をひそませていてくだすったのかとおもうと、本当にありがたい。
[#地から1字上げ]夕方、西の京にて
秋篠の村はずれからは、生駒山《いこまやま》が丁度いい工合に眺められた。
もうすこし昔だと、もっと佗《わ》びしい村だったろう。何か平安朝の小さな物語になら、その背景には打ってつけに見えるが、それだけに、此処もこんどの仕事には使えそうもないとあきらめ、ただ伎芸天女と共にした幸福なひとときをきょうの収穫にして。僕はもう何をしようというあてもなく、秋篠川に添うて歩きながら、これを往けるところまで往って見ようかと思ったりした。
が、道がいつか川と分かれて、ひとりでに西大寺《さいだいじ》駅に出たので、もうこれまでと思い切って、奈良行の切符を買ったが、ふいと気がかわって郡山行の電車に乗り、西の京で下りた。
西の京の駅を出て、薬師寺の方へ折れようとするとっつきに、小さな切符売場を兼ねて、古瓦《ふるがわら》のかけらなどを店さきに並べた、侘びしい骨董店《こっとうてん》がある。いつも通りすがりに、ちょっと気になって、その中をのぞいて見るのだが、まだ一ぺんもはいって見たことがなかった。が、きょうその店の中に日があかるくさしこんでいるのを見ると、ふいとその中にはいってみる気になった。何か埴輪の土偶《でく》のようなものでもあったら欲しいと思ったのだが、そんなものでなくとも、なんでもよかった。ただふいと何か仕事の手がかりになりそうなものがそんな店のがらくたの中にころがっていはすまいかという空頼みもあったのだ。だが、そこで二十分ばかりねばってみていたが、唐草文様《からくさもよう》などの工合のいい古瓦のかけらの他にはこれといって目ぼしいものも見あたらなかった。なんぼなんでも、そんな古瓦など買った日には重くって、持てあますばかりだろうから、又こんど来ることにして、何も買わずに出た。
裏山のかげになって、もうここいらだけ真先きに日がかげっている。薬師寺の方へ向ってゆくと、そちらの森や塔の上にはまだ日が一ぱいにあたっている。
荒れた池の傍をとおって、講堂の裏から薬師寺にはいり、金堂や塔のまわりをぶらぶらしながら、ときどき塔の相輪《そうりん》を見上げて、その水煙《すいえん》のなかに透《す》かし彫《ぼり》になって一人の天女の飛翔《ひしょう》しつつある姿を、どうしたら一番よく捉まえられるだろうかと角度など工夫してみていた。が、その水煙のなかにそういう天女を彫り込むような、すばらしい工夫を凝らした古人に比べると、いまどきの人間の工夫しようとしてる事なんぞは何んと間が抜けていることだと気がついて、もう止める事にした。
それから僕はもと来た道を引っ返し、すっかり日のかげった築土道《ついじみち》を北に向って歩いていった。二三度、うしろをふりかえってみると、松林の上にその塔の相輪だけがいつまでも日に赫《かがや》いていた。
裏門を過ぎると、すこし田圃《たんぼ》があって、そのまわりに黄いろい粗壁《あらかべ》の農家が数軒かたまっている。それが五条《ごじょう》という床しい字名《あざな》の残っている小さな部落だ。天平の頃には、恐らくここいらが西の京の中心をなしていたものと見える。
もうそこがすぐ唐招提寺の森だ。僕はわざとその森の前を素どおりし、南大門《なんだいもん》も往き過ぎて、なんでもない木橋の上に出ると、はじめてそこで足を止めて、その下に水草を茂らせながら気もちよげに流れている小川にじいっと見入りだした。これが秋篠川のつづきなのだ。
それから僕は、東の方、そこいら一帯の田圃《たんぼ》ごしに、奈良の市のあたりにまだ日のあたっているのが、手にとるように見えるところまで歩いて往ってみた。
僕は再び木橋の方にもどり、しばらくまた自分の仕事のことなど考え出しながら、すこし気が鬱《ふさ》いで秋篠川にそうて歩いていたが、急に首をふってそんな考えを払い落し、せっかくこちらに来ていて随分ばかばかしい事だと思いながら、裏手から唐招提寺の森のなかへはいっていった。
金堂《こんどう》も、講堂も、その他の建物も、まわりの松林とともに、すっかりもう陰ってしまっていた。そうして急にひえびえとしだした夕暗のなかに、白壁だけをあかるく残して、軒も、柱も、扉も、一様に灰ばんだ色をして沈んでゆこうとしていた。
僕はそれでもよかった。いま、自分たち人間のはかなさをこんなに心にしみて感じていられるだけでよかった。僕はひとりで金堂の石段にあがって、しばらくその吹《ふ》き放《はな》しの円柱のかげを歩きまわっていた。それからちょっとその扉の前に立って、このまえ来たときはじめて気がついたいくつかの美しい花文《かもん》を夕暗のなかに捜して見た。最初はただそこいらが数箇所、何かが剥《は》げてでもしまった跡のような工合にしか見えないでいたが、じいっと見ているうちに、自分がこのまえに見たものをそこにいま思い出しているのに過ぎないのか、それともそれが本当に見え出してきたのか、どちらかよく分からない位の仄《ほの》かさで、いくつかの花文がそこにぼおっと浮かび出していた。……
それだけでも僕はよかった。何もしないで、いま、ここにこうしているだけでも、僕は大へん好い事をしているような気がした。だが、こうしている事が、すべてのものがはかなく過ぎてしまう僕たち人間にとって、いつまでも好いことではあり得ないことも分かっていた。
僕はきょうはもうこの位にして、此処を立ち去ろうと思いながら、最後にちょっとだけ人間の気まぐれを許して貰うように、円柱の一つに近づいて手で撫でながら、その太い柱の真んなかのエンタシスの工合を自分の手のうちにしみじみと味わおうとした。僕はそのときふとその手を休めて、じっと一つところにそれを押しつけた。僕は異様に心が躍った。そうやってみていると、夕冷えのなかに、その柱だけがまだ温かい。ほんのりと温かい。その太い柱の深部に滲《し》み込《こ》んだ日の光の温かみがまだ消えやらずに残っているらしい。
僕はそれから顔をその柱にすれすれにして、それを嗅《か》いでみた。日なたの匂いまでもそこには幽《かす》かに残っていた。……
僕はそうやって何んだか気の遠くなるような数分を過ごしていたが、もうすっかり日が暮れてしまったのに気がつくと、ようやっと金堂から下りた。そうして僕はその儘《まま》、自分の何処かにまだ感ぜられている異様な温かみと匂いを何か貴重なもののようにかかえながら、既に真っ暗になりだしている唐招提寺の門を、いかにもさりげない様子をして立ち出でた。
二
[#地から1字上げ]十月十八日、奈良ホテルにて
きょうは雨だ。一日中、雨の荒池をながめながら、折口博士の「古代研究」などを読んでいた。
そのなかに人妻となって子を生んだ葛《くず》の葉《は》という狐の話をとり上げられた一篇があって、そこにこういう挿話が語られている。或る秋の日、その葛の葉が童子をあやしながら大好きな乱菊の花の咲きみだれているのに見とれているうちに、ふいと本性に立ち返って、狐の顔になる。それに童子が気がつき急にこわがって泣き出すと、その狐はそれっきり姿を消してしまう、ということになるのだが、その乱菊の花に見入っているその狐のうっとりとした顔つきが、何んとも云えず美しくおもえた。それもほんの一とおりの美しさなんぞではなくて、何かその奥ぶかくに、もっともっと思いがけないものを潜めているようにさえ思われてならなかった。
僕も、その狐のやつに化かされ出しているのでないといいが……
[#地から1字上げ]十月十九日、戒壇院の松林にて
きょうはまたすばらしい秋日和《あきびより》だ。午前中、クロオデルの「マリアへのお告げ」を読んだ。
数年まえの冬、雪に埋もれた信濃の山小屋で、孤独な気もちで読んだものを、もう一遍、こんどは秋の大和路の、何処かあかるい空の下で、読んでみたくて携えてきた本だが、やっとそれを読むのにいい日が来たわけだ。
雪の中で、いまよりかずっと若かった僕は、この戯曲を手にしながら、そこに描かれている一つの主題――神的なるものの人間性のなかへの突然の訪れといったようなもの――を、何か一枚の中世風な受胎告知図を愛するように、素朴に愛していることができた。いまも、この戯曲のそういう抒情的な美しさはすこしも減じていない。だが、こんどは読んでいるうちにいつのまにか、その女主人公ヴィオレエヌの惜しげもなく自分を与える余りの純真さ、そうしているうちに自分でも知《し》らず識《し》らず神にまで引き上げられてゆく驚き、その心の葛藤《かっとう》、――そういったものに何か胸をいっぱいにさせ出していた。
三時ごろ読了。そのまま、僕は何かじっとしていられなくなって、外に出た。博物館の前も素どおりして、どこへ往くということもなしに、なるべく人けのない方へ方へと歩いていた。こういうときには鹿なんぞもまっぴらだ。
戒壇院《かいだんいん》をとり囲ん
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