大きな文様《もよう》が五つ六つばかり妙にくっきりと浮かび出ている。そんな花文のそこに残っていることを知ったのはそのときがはじめてだった。いましがた松林の中からその日のあたっている扉のそのあたりになんだか綺麗な文様らしいものの浮き出ているのに気がつき、最初は自分の目のせいかと疑ったほどだった。――僕はその扉に近づいて、それをしげしげと見入りながらも、まだなんとなく半信半疑のまま、何度もその花文の一つに手でさわってみようとしかけて、ためらった。おかしなことだが、一方では、それが僕のこのとききりの幻であってくれればいいというような気もしていたのだ。そのうちそこの扉にさしていた日のかげがすうと立ち去った。それと一しょに、いままで鮮やかに見えていたそのいくつかの花文も目のまえで急にぼんやりと見えにくくなってしまった。
[#地から1字上げ]十月十二日、朝の食堂で
けさはもう六時から起きている。朝の食事をするまえに、大体こんどの仕事のプランを立てた。とにかく何処か大和の古い村を背景にして、Idyll 風なものが書いてみたい。そして出来るだけそれに万葉集的な気分を漂わせたいものだとおもう。――ちょっと待った、お前は僕が何かというとすぐイディル[#「イディル」に傍点]のようなものを書きたがるので、またかと思っていることだろう。しかし、本当をいうと、僕は最近ケーベル博士の本を読みかえしたおかげで、いままでいい加減に使っていたそのイディル[#「イディル」に傍点]という様式の概念をはじめてはっきりと知ったのだよ。ケーベル博士によると、イディル[#「イディル」に傍点]というのは、ギリシア語では「小さき絵」というほどの意だそうだ。そしてその中には、物静かな、小ぢんまりとした環境に生きている素朴な人達の、何物にも煩わせられない、自足した生活だけの描かれることが要求されている。……どうだ、分かったかい、僕がそれより他にいい言葉がなかったので半ば間にあわせに使っていたイディル[#「イディル」に傍点]というのが、思いがけず僕の考えていたものとそっくりそのままなのだ。もうこれからは安心して使おう。いい訳語が見つかってくれればいいが(どうも牧歌[#「牧歌」に傍点]なんぞと訳してしまってはまずいんだ)……
さて、お講義はこの位にしておいて、こんどの奴はどんな主題にしてやろうか。なんしろ、万葉風となると、はじめての領分なのだから、なかなかおいそれとは手ごろな主題も見つかるまい。そのくせ、一つのものを考え出そうとすると、あれもいい、これもちょっと描けそうだ、と一ぺんにいろんなものが浮かんで来てしまってしようがない。
ままよ、きょうは一日中、何処か古京のあとでもぶらぶら歩きながら、なまじっかこっちで主題を選ぼうなどとしないで、どいつでもいい、向うでもって僕をつかまえるような工合にしてやろう。……
僕はそんな大様《おおよう》な気もちで、朝の食事をすませて、食堂を出た。
[#地から1字上げ]午後、海竜王寺にて
天平時代の遺物だという転害門《てがいもん》から、まず歩き出して、法蓮《ほうれん》というちょっと古めかしい部落を過ぎ、僕はさもいい気もちそうに佐保路《さおじ》に向い出した。
此処、佐保山のほとりは、その昔、――ざっと千年もまえには、大伴氏などが多く邸宅を構え、柳の並木なども植えられて、その下を往来するハイカラな貴公子たちに心ちのいい樹蔭をつくっていたこともあったのだそうだけれど、――いまは見わたすかぎり茫々《ぼうぼう》とした田圃《たんぼ》で、その中をまっ白い道が一直線に突っ切っているっきり。秋らしい日ざしを一ぱいに浴びながら西を向いて歩いていると、背なかが熱くなってきて苦しい位で、僕は小説などをゆっくりと考えているどころではなかった。漸《や》っと法華寺村《ほっけじむら》に著《つ》いた。
村の入口からちょっと右に外れると、そこに海竜王寺《かいりゅうおうじ》という小さな廃寺がある。そこの古い四脚門の陰にはいって、思わずほっとしながら、うしろをふりかえってみると、いま自分の歩いてきたあたりを前景にして、大和平《やまとだいら》一帯が秋の収穫を前にしていかにもふさふさと稲の穂波を打たせながら拡がっている。僕はまぶしそうにそれへ目をやっていたが、それからふと自分の立っている古い門のいまにも崩れて来そうなのに気づき、ああ、この明るい温かな平野が廃都の跡なのかと、いまさらのように考え出した。
私はそれからその廃寺の八重葎《やえむぐら》の茂った境内にはいって往って、みるかげもなく荒れ果てた小さな西金堂《さいこんどう》(これも天平の遺構だそうだ……)の中を、はずれかかった櫺子《れんじ》ごしにのぞいて、そこの天平好みの化粧天井裏を見上げたり、半ば剥落《はくらく》した白壁の上に描きちらされてある村の子供のらしい楽書を一つ一つ見たり、しまいには裏の扉口からそっと堂内に忍びこんで、磚《せん》のすき間から生えている葎までも何か大事そうに踏まえて、こんどは反対に櫺子の中から明るい土のうえにくっきりと印せられている松の木の影に見入ったりしながら、そう、――もうかれこれ小一時間ばかり、此処でこうやって過ごしている。女の来るのを待ちあぐねている古《いにしえ》の貴公子のようにわれとわが身を描いたりしながら。……
[#地から1字上げ]夕方、奈良への帰途
海竜王寺を出ると、村で大きな柿を二つほど買って、それを皮ごと噛《かじ》りながら、こんどは佐紀山《さきやま》らしい林のある方に向って歩き出した。「どうもまだまだ駄目だ。それに、どうしてこうおれは中世的に出来上がっているのだろう。いくら天平好みの寺だといったって、こんな小っちゃな寺の、しかもその廃頽《はいたい》した気分に、こんなにうつつを抜かしていたのでは。……こんな事では、いつまで立っても万葉気分にはいれそうにもない。まあ、せいぜい何処やらにまだ万葉の香りのうっすらと残っている伊勢物語風なものぐらいしか考えられまい。もっと思いきりうぶな、いきいきとした生活気分を求めなくっては。……」そんなことを僕は柿を噛り噛り反省もした。
僕はすこし歩き疲れた頃、やっと山裾の小さな村にはいった。歌姫《うたひめ》という美しい字名《あざな》だ。こんな村の名にしてはどうもすこし、とおもうような村にも見えたが、ちょっと意外だったのは、その村の家がどれもこれも普通の農家らしく見えないのだ。大きな門構えのなかに、中庭が広くとってあって、その四周に母屋も納屋も家畜小屋も果樹もならんでいる。そしてその日あたりのいい、明るい中庭で、女どもが穀物などを一ぱいに拡げながらのんびりと働いている光景が、ちょっとピサロの絵にでもありそうな構図で、なんとなく仏蘭西《フランス》あたりの農家のような感じだ。
ちょっとその中にはいって往って、女どもと、その村の聞きとりにくいような方言かなんかで話がしてみたかったのだけれど、気軽にそんなことの出来るような性分ならいい。僕ときたひには、そうやって門の外からのぞいているところを女どもにちらっと見とがめられただけで、もうそこには居たたまれない位になるのだからね。……
気の小さな僕が、そうやって農家の前に立ち止まり立ち止まり、二三軒見て歩いているうちに、急に五六人の村の子たちに立ちよられて、怪訝《けげん》そうに顔をじろじろ見られだしたのには往生した。そのあげく、僕はまるでそんな村の子たちに追われるようにして、その村を出た。
その村はずれには、おあつらえむきに、鎮守の森があった、僕はとうとう追いつめられるように、その森のなかに逃げ込み、そこの木蔭でやっと一息ついた。
[#地から1字上げ]十月十三日、飛火野にて
きょうは薄曇っているので、何処へも出ずに自分の部屋に引《ひ》き籠《こも》ったまま、きのうお前に送ってもらった本の中から、希臘悲劇集《ギリシアひげきしゅう》をとりだして、それを自分の前に据え、別にどれを読み出すということもなしにあちらこちら読んでいた。そのうち突然、そのなかの一つの場面が僕の心をひいた。舞台は、アテネに近い、或る村はずれの森。苦しい流浪の旅をつづけてきた父と娘との二人づれが漸っといまその森まで辿《たど》りついたところ。盲いた老人が自分の手をひいている娘に向って、「此処はどこだ」と聞く。旅やつれのした娘はそれでも老父を慰めるようにこたえる。「お父う様、あちらにはもう都の塔が見えまする。まだかなり遠いようではございますが。ここでございますか、ここはなんだかこう神さびた森で。……」
老いたる父はその森が自分の終焉《しゅうえん》の場所であるのを予感し、此処にこのまま止まる決心をする。
その神さびた森を前にして、その不幸な老人の最後の悲劇が起ろうとしているらしいのを読みかけ、僕はおぼえず異様な身ぶるいをした。僕はしかしそのときその本をとじて、立ち上がった。このまま此の悲劇のなかにはいり込んでしまっては、もうこんどの自分の仕事はそれまでだとおもった。……
こういうものを読むのは、とにかくこんどの可哀らしい仕事がすんでからでなくては。――そう自分に言ってきかせながら、僕はホテルを出た。
もう十一時だ。僕はやっぱりこちらに来ているからには、一日のうちに何か一つぐらいはいいものを見ておきたくなって、博物館にはいり、一時間ばかり彫刻室のなかで過ごした。こんなときにひとつ何か小品で心《こころ》愉《たの》しいものをじっくり味わいたいと、小型の飛鳥仏《あすかぶつ》などを丹念に見てまわっていたが、結局は一番ながいこと、ちょうど若い樹木が枝を拡げるような自然さで、六本の腕を一ぱいに拡げながら、何処か遥かなところを、何かをこらえているような表情で、一心になって見入っている阿修羅王《あしゅらおう》の前に立ち止まっていた。なんというういういしい、しかも切ない目ざしだろう。こういう目ざしをして、何を見つめよとわれわれに示しているのだろう。
それが何かわれわれ人間の奥ぶかくにあるもので、その一心な目ざしに自分を集中させていると、自分のうちにおのずから故しれぬ郷愁のようなものが生れてくる、――何かそういったノスタルジックなものさえ身におぼえ出しながら、僕はだんだん切ない気もちになって、やっとのことで、その彫像をうしろにした。それから中央の虚空蔵菩薩《こくぞうぼさつ》を遠くから見上げ、何かこらえるように、黙ってその前を素通りした。
[#地から1字上げ]夜、寝床の上で
とうとう一日中、薄曇っていた。午後もまたホテルに閉じこもり、仕事にもまだ手のつかないまま、結局、ソフォクレェスの悲劇を再びとりあげて、ずっと読んでしまった。
この悲劇の主人公たちはその最後の日まで何んという苦患《くげん》に充ちた一生を送らなければならないのだろう。しかも、そういう人間の苦患の上には、なんの変ることもなく、ギリシアの空はほがらかに拡がっている。その神さびた森はすべてのものを吸い込んでしまうような底知れぬ静かさだ。あたかもそれが人間の悲痛な呼びかけに対する神々の答えででもあるかのように。――
薄曇ったまま日が暮れる。夜も、食事をすますと、すぐ部屋にひきこもって、机に向う。が、これから自分の小説を考えようとすると、果して午後読んだ希臘悲劇《ギリシアひげき》が邪魔をする。あらゆる艱苦《かんく》を冒して、不幸な老父を最後まで救おうとする若い娘のりりしい姿が、なんとしても、僕の心に乗ってきてしまう。自分も古代の物語を描こうというなら、そういう気高い心をもった娘のすがたをこそ捉まえようと努力しなくては。……
でも、そういうもの、そういった悲劇的なものは、こんどの仕事がすんでからのことだ、こんど、こちらに滞在中に、古い寺や仏像などを、勉強かたがた、僕が心《こころ》愉《たの》しく書こうというのには、やはり「小さき絵」位がいい。
まあ、最初のプランどおり、その位のものを心がけることにして、僕は万葉集をひらいたり埴輪《はにわ》の写真を並べたりしながら、十二時近くまで起きてい
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