を一二本見つけて、旅のあわれを味ってみたかったのである。
 そこで、僕はそういう妻の返事には一向とりあわずに、ただ、すこし声を低くして言った。
「むこうの山に辛夷の花がさいているとさ。ちょっと見たいものだね。」
「あら、あれをごらんにならなかったの。」妻はいかにもうれしくってしようがないように僕の顔を見つめた。
「あんなにいくつも咲いていたのに。……」
「嘘をいえ。」こんどは僕がいかにも不平そうな顔をした。
「わたしなんぞは、いくら本を読んでいたって、いま、どんな景色で、どんな花がさいているかぐらいはちゃんと知っていてよ。……」
「何、まぐれあたりに見えたのさ。僕はずっと木曾川の方ばかり見ていたんだもの。川の方には……」
「ほら、あそこに一本。」妻が急に僕をさえぎって山のほうを指した。
「どこに?」僕はしかし其処には、そう言われてみて、やっと何か白っぽいものを、ちらりと認めたような気がしただけだった。
「いまのが辛夷《こぶし》の花かなあ?」僕はうつけたように答えた。
「しようのない方ねえ。」妻はなんだかすっかり得意そうだった。「いいわ。また、すぐ見つけてあげるわ。」
 が、もうその花さ
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