いまその夫婦たちの見た、それとおなじものでなくとも、そこいらの山には他にも辛夷の花さいた木が見られはすまいかとおもったのである。だが、それまで一人でぼんやりと自分の窓にもたれていた僕が急にそんな風にきょときょととそこいらを見まわし出したので、隣りの夫婦のほうでも何事かといったような顔つきで僕のほうを見はじめた。僕はどうもてれくさくなって、それをしおに、ちょうど僕とは筋向いになった座席であいかわらず熱心に本を読みつづけている妻のほうへ立ってゆきながら、「せっかく旅に出てきたのに本ばかり読んでいる奴もないもんだ。たまには山の景色でも見ろよ。……」そう言いながら、向いあいに腰かけて、そちらがわの窓のそとへじっと目をそそぎ出した。
「だって、わたしなぞは、旅先きででもなければ本もゆっくり読めないんですもの。」妻はいかにも不満そうな顔をして僕のほうを見た。
「ふん、そうかな」ほんとうを云うと、僕はそんなことには何も苦情をいうつもりはなかった。ただほんのちょっとだけでもいい、そういう妻の注意を窓のそとに向けさせて、自分と一しょになって、そこいらの山の端にまっしろな花を簇《むら》がらせている辛夷の木
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