そのうえ、鼻は欠け落ち、それに胸のあたりまで一めんに苔《こけ》が生えていて、……そういえば、そんなにそれが苔づくほど、その石仏のあるあたりは、どんな夏の日ざかりにもいつも何かひえびえとしていて、そこいらまで来ると、ふいと好い気もちになってひとりでに足も止まり、ついそのままそこの笹むらのなかの石仏の上へしばらく目を憩わせる。と、苔の肌はしっとりとしている。ちょっとそれを撫でてみたくなるような見事さで。――そう、いまのいままでそれに気がつかなかったのは、いや、気がついていてもそれを何とも思わずにいたのは随分|迂闊《うかつ》だが、あそこは何かの大きな樹の下だったにちがいない。――すこし離れてみなければ、それが何んの樹だかも分からないほどの大きな樹だったのだ。あの頬杖をしている小さな石仏のうえにちらちらしていた木洩れ日も、よほど高いところから好い工合に落ちてきていたので、あんなに私を夢み心地にさせたのだったろう。
あれは一体、何んの樹だったのだろうか?……そんなことをおもいながら、私はふと樹下思惟[#「樹下思惟」に傍点]という言葉を、その言葉のもつ云いしれずなつかしい心像を、身にひしひしと感
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