腕を一ぱいに拡げながら、何処か遥かなところを、何かをこらえているような表情で、一心になって見入っている阿修羅王《あしゅらおう》の前に立ち止まっていた。なんというういういしい、しかも切ない目ざしだろう。こういう目ざしをして、何を見つめよとわれわれに示しているのだろう。
 それが何かわれわれ人間の奥ぶかくにあるもので、その一心な目ざしに自分を集中させていると、自分のうちにおのずから故しれぬ郷愁のようなものが生れてくる、――何かそういったノスタルジックなものさえ身におぼえ出しながら、僕はだんだん切ない気もちになって、やっとのことで、その彫像をうしろにした。それから中央の虚空蔵菩薩《こくぞうぼさつ》を遠くから見上げ、何かこらえるように、黙ってその前を素通りした。

[#地から1字上げ]夜、寝床の上で
 とうとう一日中、薄曇っていた。午後もまたホテルに閉じこもり、仕事にもまだ手のつかないまま、結局、ソフォクレェスの悲劇を再びとりあげて、ずっと読んでしまった。
 この悲劇の主人公たちはその最後の日まで何んという苦患《くげん》に充ちた一生を送らなければならないのだろう。しかも、そういう人間の苦患の上
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