いつか僕たちの歩いている街道は草原から離れて、両側が雑木林だの畠だのに変ってきた。そうしてすこし坂道になり出した。そういう地形の変化は、もうさすがの曠野も果てようとしていることを思わせた。それに元気づき、だんだん急になるその坂道をあがってゆくと、その突きあたりに一軒の藁屋根《わらやね》の家が見え出し、そうしてその家の前の、ちょうど山かげになった道のほとりで、一人の痩《や》せた老人がそこだけまだ一面に残っている雪をシャベルかなんかで掻きよせていた。
 そこまで坂をあがり切って、その手にしたシャベルに凭《よ》りかかって一息ついている老人に軽く会釈しながら、ふとそのそばを通り過ぎようとした途端、すぐ目のまえに、川を挟んだ小さな部落が見え、そうしてその中ほどには、古びた木橋が一つ、いかにも人なつこそうに、そうして「板橋」という名前をもった村の目じるしのように懸かっていた。そうしていつか私達の眼界から遠ざかっていた八つが岳が、又、ちょうどその橋の真上に、白じろと赫《かが》いていた。


  辛夷の花


「春の奈良へいって、馬酔木《あしび》の花ざかりを見ようとおもって、途中、木曾路をまわってきたら、おもいがけず吹雪に遭いました。……」
 僕は木曾の宿屋で貰った絵はがきにそんなことを書きながら、汽車の窓から猛烈に雪のふっている木曾の谷々へたえず目をやっていた。
 春のなかばだというのに、これはまたひどい荒れようだ。その寒いったらない。おまけに、車内には僕たちの外には、一しょに木曾からのりこんだ、どこか湯治にでも出かけるところらしい、商人風の夫婦づれと、もうひとり厚ぼったい冬外套《ふゆがいとう》をきた男の客がいるっきり。――でも、上松《あげまつ》を過ぎる頃から、急に雪のいきおいが衰えだし、どうかするとぱあっと薄日のようなものが車内にもさしこんでくるようになった。どうせ、こんなばかばかしい寒さは此処いらだけと我慢していたが、みんな、その日ざしを慕うように、向うがわの座席に変わった。妻もとうとう読みさしの本だけもってそちら側に移っていった。僕だけ、まだときどき思い出したように雪が紛々と散っている木曾の谷や川へたえず目をやりながら、こちらの窓ぎわに強情にがんばっていた。……
 どうも、こんどの旅は最初から天候の具合が奇妙だ。悪いといってしまえばそれまでだが、いいとおもえば本当に具合よくいっている。第一、きのう東京を立ってきたときからして、かなり強い吹きぶりだった。だが、朝のうちにこれほど強く降ってしまえば、ゆうがた木曾に着くまでにはとおもっていると、午《ひる》すこしまえから急に小ぶりになって、まだ雪のある甲斐《かい》の山々がそんな雨の中から見えだしたときは、何んともいえずすがすがしかった。そうして信濃境《しなのざかい》にさしかかる頃には、おあつらえむきに雨もすっかり上がり、富士見あたりの一帯の枯原も、雨後のせいか、何かいきいきと蘇《よみがえ》ったような色さえ帯びて車窓を過ぎた。そのうちにこんどは、彼方に、木曾のまっしろな山々がくっきりと見え出してきた。……
 その晩、その木曾福島の宿に泊って、明けがた目をさまして見ると、おもいがけない吹雪だった。
「とんだものがふり出しました……」宿の女中が火を運んできながら、気の毒そうにいうのだった。「このごろ、どうも癖になってしまって困ります。」
 だが、雪はいっこう苦にならない。で、けさもけさで、そんな雪の中を衝《つ》いて、僕たちは宿を立ってきたのである。……
 いま、僕たちの乗った汽車の走っている、この木曾の谷の向うには、すっかり春めいた、明かるい空がひろがっているか、それとも、うっとうしいような雨空か、僕はときどきそれが気になりでもするように、窓に顔をくっつけるようにしながら、谷の上方を見あげてみたが、山々にさえぎられた狭い空じゅう、どこからともなく飛んできてはさかんに舞い狂っている無数の雪のほかにはなんにも見えない。そんな雪の狂舞のなかを、さっきからときおり出しぬけにぱあっと薄日がさして来だしているのである。それだけでは、いかにもたよりなげな日ざしの具合だが、ことによるとこの雪国のそとに出たら、うららかな春の空がそこに待ちかまえていそうなあんばいにも見える。……
 僕のすぐ隣りの席にいるのは、このへんのものらしい中年の夫婦づれで、問屋の主人かなんぞらしい男が何か小声でいうと、首に白いものを巻いた病身らしい女もおなじ位の小声で相槌《あいづち》を打っている。べつに僕たちに気がねをしてそんな話し方をしているような様子でもない。それはちっともこちらの気にならない。ただ、どうも気になるのは、一番向うの席にいろんな恰好《かっこう》をしながら寝そべっていた冬外套の男が、ときどきおもい出したように起き上っては、床の
前へ 次へ
全32ページ中23ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング