ちょいとはいっていって見た。雪は、しかし、其拠にもそうたんと残ってはいない。ただ遠くから見た目に何んとなくそう見えるだけのものらしい。が、そんな少しばかり雪の残った草原のまんなかに立って見ると、あちこちに一本ずつ離れ離れに立っている樺《かば》の木なんぞが、その変に枝をねじらせている工合までも、何かなつかしく思われてくる。
「こういう高原の木は、どこか孤独の相のようなものを帯びているね。」僕はふとM君にそう言ってみたが、それだけではまだなんだか言い足りないような気がした。
それから僕たちはその儘《まま》、その草原の雪のうえを歩いてみていたが、なかなか道がはかどらない。そこで、またさっきの街道のほうへ出ることにした。
みると、こんどはその街道をやはり板橋のほうへ向かって、一匹の牝山羊をつれた女が、こう、すこし首をうなだれるようにして歩いてゆく。まだ若い女らしい。
冬の真昼、ときどきまぶしく光つている雪原、風のために枝のねじれた樹木、それらのすべてを取り囲んでいる雪の山々、――そういう自然の中からひとりでに生れてきたようなその羊飼いの女。……
「まるでセガンティニの女みたいだね。」僕はおもわず小さく叫んだ。「あの首のうなだれ方までそっくりだな。」
「セガンティニは僕はあの倉敷の美術館にあるのしか知らないな。」
M君は僕の言葉をそのまま受けいれるにはすこし自信がなさそうだ。
「そりあ知らないといえば、僕だってなんにも知らないようなものだがね、ただまあひょいとそんな聯想《れんそう》がうかんだんだ。」僕の方でもそんな云いわけをした。「そういえば、あそこにもアルプスの絵かなんかあったね。あれはどんな絵だったかな?」
「たしか真昼の牧場の絵で、アルプスが遠く見え、前のほうに羊飼いの女の立っているような構図だったとおもいますが。……」
「ああ、それで思い出した。なんだかこう妙にねじくれた白樺の木にその女がもたれているんだろう。……」僕はそこの美術館ではエル・グレコの絵しか見て来なかったような気がしていたが、セガンティニのような特異な絵はやはり注意して見ていたものと見える。さっき草原に立った木をなつかしそうに見ながら、何かいまにも思い出せそうでまだ思い出せずにいるものが、その殆ど忘れかけていたセガンティニの絵に描かれた白樺の木とも何か関係のありそうなことをふいと感じた。だが、それはまだ僕のうちでもはっきりとしていない。……
僕たちはその牝山羊をつれた若い女に追いつこうとして、いそいで泥濘の街道に出て、再び道ばたの雪を拾いながら歩きはじめた。が、そんなことをして漸《よ》うやっと歩いている僕たちは、泥濘のなかをも平気で歩いてゆくその牝山羊をつれた女にもずんずん引き離されてしまった。そうしていつのまにか、また僕たち二人きりにされてしまった。
そんな調子でいくら歩いていっても、野辺山が原は尽きそうもない。もうかれこれ一時間ぐらいは歩いているだろう。腹もへってきているし、もうおしゃべりをする元気もなく、二人とも泥だらけになった靴をただ重そうに運んでいるきりになった。――そうして僕はもう口には出さずに、昔小さな本で読んだことのあるセガンティニの美しい生涯などを考えつづけていた。セガンティニには、アルプスの高原の自然のなかに――いわば人間の住める自然のぎりぎりの限界のようなところに人間を置いて描いているような絵が多いが、その絵がどれもこれも妙に人なつこい。人間の世界から離れれば離れるほど、そしてそこに描かれてあるアルプスの風景がいよいよきびしければきびしいほどセガンティニの絵のもっている人なつこさはいよいよ切実になってくる。――そこにセガンティニの絵の写真を見ただけでも、僕たちが何か心を動かされるものがありはすまいか。……そうだ、僕がさっき草原に立った木をしみじみと見ているうちに、ふいと何か思い出せそうで思い出せずにいたもの、そのために知らず知らず心を一ぱいにさせていたもの、それはそんな木の或る恰好《かっこう》ばかりではなしに、こういう高原のなかに生を得ているすべての小さな生きもののもっている深い味なのだ。それらのものは、ちょっと見ると、何か近づきがたいような孤独の相を帯びてみえるけれど、それらのものほど人なつこいものはないのだ。それほど切実に、存在の本質にあくがれているものはないのだ。……
そんなことを考えつづけながら、僕はもう自分の泥だらけになった靴の重たさもさほど苦にしなくなっていた。
「あそこの藪《やぶ》のなかに馬が二三匹草を食べていますね。もう村が近づいてきたのではないでしょうか。」
M君は自分の大きな身体をすこし持ち扱かい出しているように見える。
「畠もあるじゃないか。」僕はおもわず声をはずませた。「もう村に着いたようなものだ。」
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