淋しくないでしょう。」僕はふいと万里子さんのほうを向いて言葉をかけた。いつのまに台所からはいって来たのか、万里子さんの足もとにはボブが温かそうにうずくまりながら、僕たちの団欒《だんらん》のなかに加わっていた。
「――僕ははじめてここで冬を越すことになったとき、夕方になるといつも淋しくって淋しくってどうしようかとおもうのだけれど、すっかり夜になって火をどんどん焚きはじめると、もうちっとも淋しくなくなったものでしたよ。」
「本当に。」方里子さんは大きい目でしげしげと僕のほうを見かえしながら、深くうなずいた。
 それからまた煖炉を前にして、ひとしきりさまざまな話がはずんだ。……
 その夜十時過ぎ、僕たちは宿に引き上げることにした。K君たちもそこまでちょっと送ろうといって頸巻《くびまき》をしたり、外套《がいとう》をきたりしだしていた。もういいからとことわっても、一しょに小屋を出た。ボブもあとからくっついてきた。夜の空気は稀薄で、痛いように冷え切っていた。僕たちはあすは何処かもっと山の方――菅平《すがだいら》か、野辺山《のべやま》あたりまで出かけ、妻がこちらに来る頃にまた戻ってくることを約束して林のはずれで別れた。
 僕たちはそれから沈黙がちに、枯木の下を抜け抜け、僕たちの靴に踏まれて凍った土の割れる音を耳にしながら、歩いていった。するともう一つ、ときどき何処かから、それとはちがった、硬い、金属的な幽《かす》かな音が聞えて来た。
「あれは何んの音でしょう?」M君がいぶかしそうに訊《き》いた。
「ああ、あれかい。あれは、君、枯枝と枯枝とが風でぶつかる音だよ。――ほら、ああやってちょっとぶつかるだけでも、ずいぶん鋭い音を立てるだろう。空気がぱりぱりになっているのだね。……」
 そう言いながら、一しょに頭上の梢をみあげていると、絶えずかすかに揺れている枯枝の網を透いて、一めんの星空だった。そうしてその星のひとつひとつが東京なんぞの空で見えるよりかずっと大きく見えた。
 突然、右手の空家の庭の一隅で、がさがさと溜《たま》った落葉がひっかきまわされるような音がきこえた。何か白いものがそこいらをひとりで駈けずりまわっていた。
「ボブ!」僕はそのほうへ声をかけて見た。
 すると、まるでその木魂《こだま》のように、向うの林の奥から「ボブ!」と呼ぶ声がかすかにした。
「いまのは万里子さんらしいね。静かだなあ。なんだか、こう、ひさしぶりで昔の冬に出逢ったような気もちがしてならないよ。……」
「またこちらで冬をお越しになりませんか?」M君はさもそれが何んでもないことのように言った。
「そういうこともときどきは考えている。……」僕はただそう言ったぎりだった。
 僕たちはまた凍った土を踏み割りながら、徐《しず》かに歩き出した。

    ※[#アステリズム、1−12−94]

 翌日。僕たちは朝はやく小諸《こもろ》まで往き、そこから八つが岳の裾野を斜に横切るガソリン・カアに乗り込んだ。もう冬休みになっていても、この山麓地方《さんろくちほう》はあまりスポルティフではないので、乗客は僕たちのほかはみんな土地の人たちらしかった。
 南佐久《みなみさく》の村々の間をはじめの一時間ばかりは何事もなく千曲川に沿ってゆくだけだが、そのうち川辺の風景が少しずつ変ってきて、白楊《はこやなぎ》や樺《かば》の木など多くなり、石を置いた板屋根の民家などが目立ちだした。そうしてそれらの枯木だの、家だのの向うに、すっかり晴れ切った冬空のなかに、真白な八つが岳の姿がくっきりと見えるようになって来た。
 そうやってまだ人家のおおい平原を横切りながら、ぐんぐんと雪のある山に近づいてゆく一種の云い知れない快感を満喫しながら、僕は時々、物陰などにまだ残っている雪の工合などへも目を配っていた。
「この分では、野辺山までいっても雪は大したことはなさそうだぜ。」
 僕はそんなことを口ごもったりした。
「そうですかしら。」M君はもう見当がつかないような様子をして、ただ窓の向うに白く赫《かがや》いている八つが岳のほうを見つづけていた。
 そのうち、だんだん谷間のようなところにはいり出す。しばらくはもう山々ともお別れだ。そうして急に谷川らしくなりだした千曲川の流れのまん中に、いくつとなく大きな石がころがっているのばかり目に立ってくる。そんな谷の奥の、海《うん》の口《くち》という最後の村を過ぎてからも、ガソリン・カアはなおも千曲川にどこまでも沿ってゆくように走りつづけていたが、急に大きなカアブを描いて曲がりながら、楢林《ならばやし》かなんぞのなかを抜けると、突然ぱあっと明かるい、広々とした高原に出た。そうしてまだ雪もかなり沢山残っているその草原の向うの一帯の森のうえに、真白な八つが岳――そのうちでも立派な赤岳と横
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