来ていないかどうかと、そうやってもう二週間ぐらいも前から、毎日のようにその女が様子を見にくるのだよ。二三度、僕たちのところにも立ち寄って、何か心配そうに様子をきくので、こっちでもその度に相手になってやっていたが、問い合わせの手紙でも出したらどうかと云うと、ただ首をふっているきりなのだ。もうその家では来ないことが分かっているのだ。それだのにこの頃は一日のうちに二度も三度もやって来るんだ。いつもあの毛皮の外套をきて、紅いベレをかぶって。――そうしてその度に、僕たちの家の中をじいっと見てゆくんだ。それをまた万里子が薄気味わるがってね。……」
「結局、一人でさびしくってしようがないんだな。こっちにいる他の外人とは全然つきあわないのかい。」
「どうもその女だけ除《の》けものにされているらしい。村の人にきくとあの女はしようがありませんと云って、てんで相手にならないんだ。」
「そんななのかい。――僕はどういう素性の女かよく知らないが、夏なんぞその女が奇妙ななりをして、買物袋をぶらさげながらなんだかしょぼしょぼして歩いているのを見かけては、何者だろうとおもっていたんだがね。あれで、この夏聞いたことだが、恋人がいるんだそうだ。毎夏やってくるハンガリイの音楽家でね、その男と町などで逢うと、人中だろうと何だろうと構わずに立ち止まって、黙ってその音楽家の顔を穴のあくほどじっと見つめているのだそうだよ。それがもうかれこれ十年来の意中の人なのだそうだ。」
「あの女にもそんな話がね。」K君はうなずいていた。
「どうもこんなところに来ている外人には突拍子《とっぴょうし》もない奴がいるものだな。――夏あんなに見すぼらしいなりをしていた女が、冬になって誰れもいなくなると、急にすばらしい毛皮の外套なんぞを着込んで林の中をあるいていようなんて、想像もできないことだよ。だが、ああして一人っきりでもって、よく暮らしていられるものだなあ」
「本当によく暮らしているね。……」K君も考え深そうに答えた。
「だが、人のことよりか、君も寒がりのくせに、こんなところでよく我慢しているね。――どうして暮らしているだろうと、ときどき噂をしていたよ。」
「暮らそうとおもえば、どんなことをしても暮らせることが分かったよ。それに寒さだって、こういうものだと思ってしまえば、いくらでも我慢していられるね」
「でも、万里子さん。」と僕は言葉を挿《はさ》んだ。「あなたの方の為事《しごと》は大へんでしょう?」
「そんなでもありませんわ、いまのところ何んにも困りませんの。」万里子さんはそんな事はいかにも何んでもなさそうな答えかたをした。
「そりあ困らないわけさ、一週間も同じものばかり食べさせられていても、僕はなんにも言わないんだもの。」K君はそうは言っても、すこしも不平そうではなかった。むしろ、そういう山のなかの簡素な暮らしを好んでいるようにさえ見えた。
夕食は、しかし山のなかでは思いがけない御馳走だった。ひさしぶりに四人で鳥鍋をかこみながら身も心も温かになって、世はさまざまな話をするのは愉《たの》しかった。
僕はこの秋から冬にかけてひとりで旅して歩いた大和路のことを話した。それからその旅のおわりに、エル・グレコの絵を見てきたことなども話した。――その倉敷という小さな町まで五時間もかかって往って、やっとそこの美術館にたどりつき、画廊にはいるなり、すぐエル・グレコの絵に近づいて見ると、それは思ったより小さなものだったが、いかにも凄い絵で、一ぺんではねつけられ、しかたなく他のゴッホやロオトレックなどを一とおり丁寧に見て歩いてから、一番最後に再びそれに近づいたら、こんどはやっと少し平静な気分でその絵に向えたことなど話しながら、エル・グレコなんぞの絵の自分たちにとって、なまやさしいものでないことをしみじみと告白した。
「それもごく小さな「受胎告知図」なんだがね。そこでは、この抒情的な画題に対していだいている僕たちの観念がものの見事に粉砕せられてしまっているのだ。天使は天使で、闇のなかから突然ぎらぎらと光を発する異常なものとして描かれているし、その天使のほうを驚いて見あげている処女の顔も何かただならぬように見える。すべてがいかにも悲劇的な感じなのだ。……こんどはこの一枚だけでもよく見てゆこうとおもって、ずいぶん一所懸命になって見てきたつもりだが、どうしてもまだその絵が分かったようで分からない。そう、分らないというより、なんだかこんな絵がこんなところに来ているのが不思議な気がしてくるのだ。なんだかそれがあるべき場所にいないような……それほど何か異様なのだ……」
「そのグレコの絵は僕も見たいね。」K君は何かじっと煖炉《だんろ》の上の空間を見入っているらしかった。
「こうやって火を焚《た》いていると夜でもちっとも
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