のではないかしら。ゲエテも、どこかで、こんなことを云っている。『自分はギリシヤ研究のおかげで「イフィゲニエ」を書いたが、自分のギリシヤ研究はすこぶる不完全なものだった。もしその研究が完全なものだったら、自分の「イフィゲニェ」は書かれずにしまったかも知れない。』
客 うん、なるほどね。つまり、古代のことは程よく知っている位で、非常にういういしい憧れをもっているうちのほうが小説を書くのにはいいということになるわけか。これは好い言葉をきいた。……どうもこのごろ、自分でも悪い癖がついたとおもい出していたところだ。日本の古代文化の上にもはっきりした痕《あと》を印しているギリシヤやペルシャの文化の東漸ということを考えてみているうち、いつか興味が動きだしてギリシヤの美術史だとか、ペルシヤの詩だとか読み出している。それはまだいい、そのうちにいつのまにかゲエテの「ディヴァン」だとか、ノワィユ夫人の詩集までが机の上にもち出されているといった始末だ。
主 (同情に充ちた笑)まあ、ゆっくりでもいいから、あまり道草をくわずに、仕事に精を出したまえ。……そういえば、数年まえに釈迢空さんが「死者の書」というのを書いていられたではないか、あの小説には実によく古代の空気が出ていたようにおもうね。
客 そう、あの「死者の書」は唯一の古代小説だ。あれだけは古代を呼吸しているよ。まあ、ああいう作品が一つでもあってくれるので、僕なんぞにも何か古代が描けそうな気になっているのだよ。僕ははじめて大和の旅に出るまえに、あの小説を読んだ。あのなかに、いかにも神秘な姿をして浮かび上がっている葛城《かつらぎ》の二上山《ふたがみやま》には、一種の憧《あくが》れさえいだいて来たものだ。そうして或る晴れた日、その麓《ふもと》にある当麻寺《たぎまでら》までゆき、そのこごしい山を何か切ないような気もちでときどき仰ぎながら、半日ほど、飛鳥の村々を遠くにながめながらぶらぶらしていたこともあった。
主 その二上山だ。その山に葬られた貴い、お方の亡《な》き骸《がら》が、塚のなかで、突然深いねむりから村びとたちの魂乞《たまご》いによって呼びさまされるあたりなどは、非常に凄かったね。森の奥の、塚のまっくらな洞のなかの、ぽたりぽたりと地下水が巌づたいにしたたり落ちてくる湿っぽさまでが、何かぞっとするように感ぜられた。
客 全篇、森厳なレクヰエムだ、古代の埃及《エジプト》びとの数種の遺文に与えられた「死者の書」という題名が、ここにも実にいきいきとしている。
主 毎日の写経に疲れて、若い女主人公がだんだん幻想的になって来、ある夕方、日の沈んでゆく西のほうの山ぎわにふと見知らない貴いおかたの俤《おもかげ》を見いだすところなども、まだ覚えている。
客 あの写経をしている若い女のすがたは美しいね。僕はあそこを読んでからは女の手らしい古い写経を見るごとに、あの藤原の郎女《いらつめ》の気高くやつれた容子《ようす》をおもい出して、何んとなくなつかしくなる位だ。
主 あの小説には、それからもう一つ、別の興味があった。大伴家特《おおとものやかもち》だ。柳の花の飛びちっている朱雀大路《すざくおおじ》を、長安かなんぞの貴公子然として、毎日の日課に馬を乗りまわしている兵部大輔《ひょうぶたいふ》の家持のすがたは何んともいえず愉《たの》しいし、又、藤原仲麻呂《ふじわらのなかまろ》がその家持と支那文学の話などに打ち興じながら、いつか話題がちかごろ仏教に帰依した姪の郎女《いらつめ》のうえに移ってゆく会話なども、いかにもいきいきとしていたな。
客 そういうところに作者の底力がひとりでに出ている。人間として大きな幅のある人だ。
主 一方、万葉学者としてもっとも独創に富んだ学説をとなえてきた、このすぐれた詩人が、その研究の一端をどこまでも詩的作品として世に問うたところに、あの作品の人性《ユマニテ》があるのだね。だが、どうしてあれほどのものが世評に上らなかったのだろう。
客 世間はそういう仕事は簡単にディレッタンティズムとしてかたづけてしまうのだ。学界の連中は、こんどは小説という微妙な形式なので、読まずともいいとおもったろうし……本当にこの作品を読んだという人は、僕の知っている範囲では、五人とはいなかったものね。
主 僕などもその一人だったわけか。幸福なる少数者の……しかし、それはそれだ。君もいい仕事をしてくれたまえ。いい読者になってあげるから。
客 こんどはこっちに風が向いてきたな。まあ、もうすこし待ってくれ。まだ自分でもしようがないとおもうのは、大和の村々を歩いていると、なんだかこう、いつもお復習《さらい》をさせられているような気もちが抜けないことだ。もうすこし何処にいるのだかも忘れたようになって、あるときは初夏の
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