てあります。
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秋山《あきやま》の黄葉《もみぢ》を茂《しげ》み迷《まど》はせる妹《いも》を求めむ山路《やまぢ》知らずも
もみぢ葉《ば》の散りゆくなべにたまづさの使《つかひ》を見れば逢《あ》ひし日|思《おも》ほゆ
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丁度、晩秋であったのでありましょう。彼がそうやって懊悩しながら、軽の村をさまよっていますと、おりから黄葉がしきりと散っております。ふと見上げてみると、山という山がすっかり美しく黄葉している。それらの山のなかに彼の愛人も葬られているのにちがいないが、それはどこいらであろうか。そんな山の奥ぶかくに、彼女がまだ生前とすこしも変らない姿で、なんだか道に迷ったような様子をしてさまよいつづけているような気もしてならない。だが、それが山のどこいらであるのか全然わからないのだ。……
そんなことを考えつづけていると、突然、誰か落葉を踏みながら自分のほうに足早に近づいてくるものがある。見ると、文《ふみ》を挿《はさ》んだ梓《あずさ》の木を手にした文使《ふづか》いである。ふいと愛人の文《ふみ》を自分に届けに来たような気がして、おもわず胸をおどらせながら立ち止まっていると、落葉の音だけをあとに残してその文使いは自分の傍を過ぎていってしまう。突然、亡き愛人と逢った日の事などが苦しいほど胸をしめつけてくる。
そういう情景がいかにもまざまざと目の前に蘇《よみがえ》って来るようであります。それだけで好い。その軽の村がどういうところであるかも、その歌がおのずから彷彿《ほうふつ》せしめている。その藤原京《ふじわらきょう》のころには、京にちかい、この軽のあたりには寺もあり、森もあり、池もあり、市《いち》などもあったようであります。その死んだ愛人などもよくその市に出て、人なかを歩いたりしたこともあったらしい。そしてその路からは畝傍山がまぢかに見え、そのあたりには鳥などもむらがり飛んでいたのでありましょう、――今もまだその軽の村らしいものが残っております。その名を留めている現在の村は、藪《やぶ》の多い、見るかげもなく小さな古びた部落になり果てていますが、それだけに一種のいい味があって、そこへいま往ってみても決して裏切られるようなことはありません。
低い山がいくつも村の背後にあります。そういう低い山が急に村の近くで途切れてから、それがもう一ペん
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