っては古代人の死に対する観念をひとつの形象にして表わしてくれているようなところがあるのでありましょう。いつごろからそういう古代人の死の考えかたなどに僕が心を潜めるようになったかと云いますと、それは万葉集などをひらいて見るごとに、そこにいくつとなく見出される挽歌《ばんか》の云うに云われない美しさに胸をしめつけられることの多いがためでした。このごろ漸《ようや》くそういう挽歌の美しさがどういうところから来ているかが分かりかけて来たような気がします。
先ず、古代人の死に対する考えかたを知るために、あの菖蒲池古墳についてかんがえて見ます。あの古墳に見られるごとき古代の家屋をいかにも真似たような石棺様式、――それはそのなかに安置せらるべき死者が、死後もなおずっとそこで生前とほとんど同様の生活をいとなむものと考えた原始的な他界信仰のあらわれ、或いはその信仰の継続でありましょう。しかし、僕たちが見たその古墳のように、その切妻形の屋根といい、浅く彫上げてある柱といい、いかにもその家屋の真似が精妙になってきだすのと前後して、突然、そういう立派な古墳というものがこの世から姿を消してしまうことになったのです。これはなかなか面白い現象のようです。勿論、それには他からの原因もいろいろあったでしょう。だが、そういう現象を内面的に考えてみても考えられないことはない。つまり、そういう精妙な古墳をつくるほど頭脳の進んで来た古代人は、それと同時にまた、もはや前代の人々のもっていたような素朴な他界信仰からも完全にぬけ出してきたのです。――一方、火葬や風葬などというものが流行《はや》ってきて、彼等のあいだには死というものに対する考えかたがぐっと変って来ました。それがどういう段階をなして変っていったかということが、万葉集などを見ているとよく分かるような気もちがします。……
たとえば、巻二にある人麻呂の挽歌。――自分のひそかに通っていた軽《かる》の村の愛人が急に死んだ後、或る日いたたまれないように、その軽の村に来てひとりで懊悩《おうのう》する、そのおりの挽歌でありますが、その長歌が「……軽《かる》の市にわが立ち聞けば、たまだすき畝傍《うねび》の山に鳴く鳥の声も聞えず。たまぼこの道行く人も、ひとりだに似るが行かねば、すべをなみ、妹《いも》が名呼びて袖ぞ振りつる」と終わると、それがこういう二首の反歌でおさめられ
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